先生のためのアイディア帳

効果的な指導法やエトセトラについて

生徒にすべてを任せるのがアクティブ・ラーニングではない件について

こんにちは。

 

今日は「アクティブ・ラーニング」「生徒主体の学び」「探究型学習」等々と呼ばれるものを実現するために必要なのは「生徒にすべてを任せること」ではない、ということを書きたいと思います。

 

やすてる先生のこちらのツイートを拝見して、

自分がこちらで勉強したことや読んだものを走馬灯のように思い出したので、その一部をシェアしつつ、ちょこちょこと私の考えも付け足してみます。

 

まずは、ツイッターでも触れたこちらをご紹介します。

  

「アクティブ・ラーニング」「生徒主体の学び」「探究型学習」、どの用語も厳密に区別されずに使われている気がするので、どの用語で考えてもいいことにして話を進めますが、たとえば一口に「アクティブ・ラーニング」と言っても、その中身は多様で、少なくとも、このイラストにある4種類には分類して考えてみる必要があると思います。

 

一応、同じ画像をこちらにも貼り付けます。

【探究型学習のタイプ @trev_mackenzie】(無料ダウンロード可です。)

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私の意訳で説明していくと、左から、

  1. 誘導型:教員がクラス全員に対して1つのテーマ(疑問)を選ぶ。教員が全工程をリードする。
  2. 制限付き:教員が複数のテーマ(疑問)とそれらの探究に必要となる複数の資料を選ぶ。各生徒はその中から自分のテーマ(疑問)と資料を選び、答えを探る。
  3. 導入付き:教員が複数のテーマ(疑問)を選ぶ。各生徒はその中から自分のテーマ(疑問)を選び、そして自分で資料を見つけて、答えを探る。
  4. フリー:テーマ選択、課題設定、資料選定のすべてを各生徒が主導して探究を行う。

topicsとtopics/questionsを同義とみなすかや、answer questionsとdesign solutionを同義とみなすかは、もうちょっと説明がないとはっきりしないのですが、ここではそこまで突っ込まないことにして、大事なところだけ確認しておきます。

 

大事なところ、それは、プールの深さと、生徒がどこで何をしているか、それから先生がどこで何をしているかです。(いきなりイラストの話。)

 

つまり、段階を追って、生徒のできることの難易度と、彼らにゆるされている自由度がともに上がっていること、そして、先生は各段階において必要なだけの補助を生徒に与えているということです。

 

このイラストで考えると、やすてる先生がおっしゃっている「全投げ」というのは、右端の段階のさらに先を行く「もはやアクティブ・ラーニングではない何か」に相当するのではと個人的には思えます。というのも、たとえ右端の段階にあったとしても、先生は生徒をモニターし、彼らのニーズを見つけ、必要な補助を与える役割をしていますので。

 

では、右端の段階に到達することを目指して「アクティブ・ラーニング」を行う場合、方法としては、左端から初めて徐々に右端へと移行していくのがいいのでしょうか。私の答えは微妙で(すみません)、まず「右端を目指す必要が本当にあるのかをよく検討すべき」で、次に「仮に右端を目指すのであれば、段階を追うべき」、でも、「一つの教科が全段階をカバーする必要はない」です。

 

これは主に私の前任校での経験を受けての答えです。私の前任校には私が国宝だと思っている司書教諭(仮名:山田先生)がいるのですが、山田先生は、中1地理→中2家庭科→中3公民、と学年を追って生徒が左端から徐々に右側へ進めるような「探究型学習」のカリキュラムを実践していらっしゃいました。(今も、それを改善しながら続けていらっしゃいます。)(その他にも、各学年活動の中でも、このカリキュラムに関わってくるような学習活動がありました。)ですが、私が知っている限りでは、山田先生はイラストの右端の段階に到達することを目標にはしていなかったと思います。

 

ということを踏まえると、私の答えは先に述べたような微妙なものになります。

 

それから、「段階を追うべき」の理由として付け加えたいのが、この引用です。

[M]inimally guided instruction can increase the achievement gap. (Clark et al., 2012, p.8)

最小限の教員の補助しか与えない指導は、生徒間の到達度の格差を広げうる。(訳:私)

 

これもやすてる先生がおっしゃっていましたが、

授業はそこにいる生徒全体をガッと1ランク、2ランク上に押し上げることを目指すべきだろうと私は思っているので、そういう意味で、「段階を追う」必要はあるかな、と。

 

ちなみに、引用した論文は「教員からの十分な補助のある授業はすでにできる生徒の力をさらに伸ばすことにも貢献する」とも論じています。注意すべきなのは、これは「ものすごくできる生徒」には必ずしも当てはまらないのだと加えられている点で、もしそういう生徒がいる場合には右端のフリーのタイプでいきなり取り組ませることを検討するのがいいと言えそうです。

 

余談ですが。私は今大学院で、地元の小中高の先生や大学の講師やその他教育に関わる仕事をしている人たちと一緒に学んでいます。つまり、教育についてはけっこう理解のある人間が集まっているのですが、その私たちでも、自分が学生としてフリーのタイプの課題を与えられると、まず間違いなく大いに困ります。で、「この課題で何をさせたいのかわかりやすく書いてまとめて」「ルーブリックくれ」「モデル(昨年度同じコースで提出されてA+をもらったもの)くれ」などさんざん言って、フリーのタイプの課題がフリーのタイプの課題でなくなるところまで力ずくで持っていきます(笑)。

 

それでも、中には断固としてフリーのタイプにこだわる課題もありましたが、それはそれで、教授から「何か決める前、何か始める前には必ず相談に来てほしい」と全員がはっきり伝えられていて、相談に行くと適切な補助やアドバイスをもらえて、路頭に迷わないようになっていました。要は、教授側にはフリーのタイプにこだわる理由がはっきりとあって、「そこは譲れないけれどそれ以外なら何でも言って!」というふうになっていました。

 

ただ、上の2パラグラフは、たぶん、学習者がけっこうな大人ならではのエピソードですよね。学習者側が「自分が今どういう状況にあって、どこで困っていて、どんな補助が必要なのか」をわかっていて、しかもコミュニケーション能力もそこそこにないと、こういう動きは取れないと思います。なので、もし小中高の先生がいきなりフリーのタイプの課題を出して、「何かあったら相談に来て!よろしく!」というスタンスでいた場合、それはうまくいかないだろうと思えます。

 

そんなわけで、今回は、「アクティブ・ラーニング」「生徒主体の学び」「探究型学習」というのは、実は「教員からの補助」をものすごく必要とするものなのだということを書いてみました。では「どんな補助が必要か」ということなのですが、それはもう少し勉強してから書きたいと思います。(書かなかったらすみません。)

 

それではまた次回まで。

 

Happy teaching, my friends!!

 

参考:

Clark, R. E., Kirschner, P. A., & Sweller, J. (2012). Putting students on the path to learning: The case for fully guided instruction. American Educator, 36(1), 6-11.

Kirschner, P. A., Sweller, J., & Clark, R. E. (2006). Why minimal guidance during instruction does not work: An analysis of the failure of constructivist, discovery, problem-based, experiential, and inquiry-based teaching. Educational Psychologist, 41(2), 75-86.

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コンピテンシーを育成する指導:「生徒の学びを促進する評価」のすばらしい例(2)

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こんにちは。

 

昨日Education WeekのTesting For Real-World Performance(Real-World Performanceが意味するものが大きすぎるのですが、頑張って訳すと「実社会で活きるパフォーマンスを伸ばすための評価」といった感じでしょうか)というタイトルのウェビナー(無料!)に参加したので、今回はそこでのやりとりの一部とそこから考えたことを書いてみたいと思います。久しぶりに最初から最後まで「評価」についてです。

 

今回は「形成的評価」と「総括的評価」という言葉が繰り返しでてきますので、必要に応じて先に以下の2つのエントリーをチラ見していただくのもよいかもしれません。

  では、ここから本題です。

 

ウェビナーでは私は‟An On-the-Ground Perspective on Performance Assessment(パフォーマンス評価についての現実的な見解)”がテーマになっている部屋におりまして、次のような質問をしました。

Hello, everyone. Thanks for sharing your experience, thoughts, and questions.
I personally think assessment of "real-world performance" should look like on-going formative assessment, which may not be able to be represented well by the letter grade system. Any thoughts?

こんにちは。皆さんの経験や考えや疑問、とても勉強になります。さて、私は「実社会で活きるパフォーマンス」のための評価というのは、継続的に行われる形成的評価であるべきだと思っています。ですが、形成的評価は段階評価(5でも10でも。英語圏ではA~F)に換算することが不可能なような気がします。この点、いかがでしょうか?

 

*「段階評価=総括的評価」という意味合いで「段階評価」という言葉を使っています。

  「『形成的評価』を中心に指導をしたいけれど最終的には『総括的評価/段階評価』をしなければならない」というのは、北米の先生が抱えるジレンマあるあるNo.5までには確実にランクインしているだろうポピュラーな話題で、そのため、私の質問の意味が不明瞭なのにもかかわらず、ウェビナー参加者は一瞬で意図を汲み取って反応してくれました。

 

その中で超ビリビリしたのは(日本語がおかしい)、「形成的評価」を本当に「形成」のために利用している人(仮名:アン)に出会えたことでした。これだけだと意味不明なのでちょっと付け加えると、アンは「形成的評価」を換算して「総括的評価」を出すようなことはしていないと言うのです。これは私にとっては「理想的な学びを可能にする評価」の仕方に思えて、それで超ビリビリしたというわけです。

 

ウェビナーでの書き込みが著作権的にどう扱われるべきなのかがわからないので、書き込み自体をコピペするのは避けて、以下、アンとのやりとりをシェアしたいと思います。

 

アンは、19年間5か国の学校で、中2~高3を対象に、サイエンス(STEM)における64のコンピテンシー(多っ!)を育成するためのProject-Based Learning(「課題解決型学習」という訳になるでしょうか)を行い、そこで複数学年に渡る評価プログラムの研究をしてきたということでした。ちょっとスケールが大きすぎてあっけにとられますね…

 

その結果として彼女が得た気付きは、以下の2点だったそうです。

  1. 「総括的評価」は全体の指導の妨げになっている
  2. 「総括的評価」は「社会で役立つ本当の学び」のために必要な自由を奪っている

それでも、どの学校も最終的には「総括的評価」を必要としているので、それにあたる(たぶんA~Fの)段階評価を最近終えたところだ、とも教えてくれました。

 

そこで、私の次の質問がこれです。

Sounds fantastic, Ann! Could you share a bit more details about how formative assessment was conducted, recorded, and used? As well, about how the translations were carried out?

素晴らしいですね! 形成的評価がどんなふうに行われ、記録され、利用されたか、それから、総括的評価に換算されたか、もう少し詳しく教えてもらえませんか?

 

彼女の回答をまとめると以下のようになります。

  • 「形成的評価」は単に「全体の学習活動を分割して難易度を低くした活動」に対して「タイムリーに」行われる評価というわけではない。(「形成的評価」に関してはこの理解の仕方をしている人が多いが、それは定義として狭すぎる。)
  • 実際にコンピテンシーを育成するには、生徒は何回も繰り返し練習する必要がある。「分割して難易度を低くした活動」を練習するときに、その1回1回のパフォーマンスが「テスト」の結果のように扱われ、最終的に「総括的評価」に反映されるとしたら、それはおかしい。
  • 練習→フィードバック→練習という過程を何度も繰り返して、「分割して難易度を低くした活動」について自信とコンピテンシーが育成されたら、そこで初めて生徒を「分割されていない難易度の高いままの活動」に取り組ませる。
  • そこでも、生徒に、練習→フィードバック→練習という過程を踏ませる。生徒が十分に準備できたらそこでのパフォーマンスの評価を「総括的評価」とする。(これがA~Fか何かの段階評価に換算される。)

 

ここで私が一番「そうだよね!」と思ったのは、「形成的評価」と「総括的評価」を完全に別物として扱っているという点です。言い換えると、複数の「形成的評価」を換算して「総括的評価」の一部または全部にするというのは、「『生徒が目標とするコンピテンシーを獲得したか』を測るための評価」としては妥当ではないと言い切っている点です。

 

ちょっと用語が多すぎてわかりにくいと思うのですが、この指摘は実は直感的にも受け入れやすいものだと思います。

 

高校英語を例に考えてみます。

 

たとえば、高1の前期中間試験で仮定法に苦戦して40点を取った生徒が、その後仮定法がすっかりわかるようになり、ついでに他の学習内容もよく身に着いて、高1の後期期末試験では100点を取ったとします。この生徒の高1修了時の英語の成績を出すとき、全部の定期試験の結果を平均して、たとえば、「75点!」とするのは「総括的評価」として妥当でしょうか? そうではない、というのが上記の議論です。この生徒の「総括的評価」は100点になるべきだ、ということになります。

 

この考え方に対してネガティブな反応が出るとしたら、たぶん次の2点ではないでしょうか。

  1. 本の学校の定期試験は各回が別々の単元を扱っていることが多く、そうなると、前の試験でできなかったことを以降の試験で挽回するのは無理。
  2. この考え方に基づくと、「一発逆転ホームラン」が起こりうることになるが、心情的にそれに賛成しきれない。

 

ここからは私の推測になりますが、元の議論を引き受けると、この2つの意見に関してはそれぞれ、

  1. そもそもその試験がダメ。
  2. 「一発逆転ホームラン」、素晴らしい!

という答えが導かれるだろうと思います。

 

「一発逆転ホームラン」に関しては、実はこちらで受けた授業の教授(もっっっのすごく優秀な小学校教員/校長で、退職後は大学教授)が、「一発逆転ホームランができるように年間カリキュラムを組んでいる」と話していたのを聞いて、そういう方法が実際にあってもいいのだということを知っているせいか、私は前向きに「いいね!」と思えるのですが、知らなかったら、もしかしたら抵抗感を抱いていたかもしれません。

 

ある先生が「一発逆転ホームラン」に抵抗感を覚えるとしたら、それは生徒の「地道な努力」を評価したいという親心みたいなものの裏返しかもしれません。(「地道な努力」を生徒に感情的に押しつけているだけだったらマズイのですが。)でも、「指導の目標」が「コンピテンシーの育成」である場合、「コンピテンシーの獲得」が達成された時点でその生徒は自動的にAなり10なりの最高の評価を受けていないとおかしいんですよね。

 

もし「指導の目標」に「計画的に学習に取り組む姿勢の育成」が含まれていれば、話は少し変わってくると思いますが。

 

それからもう一つ。練習→フィードバック→練習という過程を踏みながら「形成的評価」を細かく行っていれば、先生は絶対に生徒のジワジワした成長を確認できているはずです。そうであれば、もしも試験の点数上で「一発逆転ホームラン」に見えるようなランダムな飛躍があったとしても、一番最近の試験がその生徒の実力を一番正確に反映しているのだと、先生が誰よりも確信できるはずです。つまりこの場合、「一発逆転ホームラン」に見えるものは、先生にガッツポーズをさせるものであって、「この生徒の学年末評定どうしよう…」と頭を抱えさせるようなものではないのだということになります。

 

ちなみに、アンのチームが「総括的評価」をどう行ってどんな結果を得たかまでは聞けなかったので勝手に予想すると、ルーブリックを用いたパフォーマンス評価(筆記試験が含まれたとしても、選択や穴埋めではない)で、結果は、A~Fの段階評価であれば、Aが25%、Bが45%、Cが15%、Dが10%、Fが5%くらいかと思います。各生徒の元々の能力にも取り組みにも家庭等の環境にも差があるので、いくら理論上完璧な指導をしたとしても、生徒全員がAになることはないかと。

 

そんなわけで、話がまとまりませんでしたが、今回は昨日のウェビナーを振り返りながら、「形成的評価」をとことんまで利用しきるとどんな指導が実現されうるのか、そして、その場合に「総括的評価」がどんなふうになりうるかについて(妄想を交えて)書いてみました。

 

定期試験を廃止する学校が話題になっている昨今、評価方法については意外に早く大きな変化の波が来るかもしれません。

 

それではまた次回まで。

 

Happy teaching, my friends!!

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「本校規定による」、やめませんか?:教員の募集情報に物申す

こんにちは。

 

今日のエントリーはただの愚痴です。

 

私事ですが、就職活動を少しずつ始めています。とは言っても、ターゲットを私立中高にしていると、「手書きの履歴書」とか「A41枚分の志望動機書」とか「教員免許状のコピー」とか「郵送」とか「学校での面接2回」とかいった昭和と平成のアレが高確率で待ち受けているため、現在はまだ海外にいる私のような人間は結局オンラインで情報収集する以上の動きが取れないのが実際のところです。

 

というか、「オンラインでの情報収集」すらまともにできません。

 

言いたいことは1つ。「募集情報の『本校規定による』ってなんやねん。」

 

私立中高教員の募集情報を見ていると、一般企業の求人情報でいう「給与」「勤務時間」「休日・休暇」「待遇・福利厚生」の一部かすべてが「本校規定による」という一言で片づけられているケースが圧倒的に多いのです。目安の数字すらない。

 

これ、違法ではないのでしょうが、すごく間違っている感じがするんですよ。「時給知らずにバイト応募するヤツがいるかよ!」という指摘はもちろんできるとして、この「本校規定による」がふつうにまかり通っている状況に昨今の教員の職場環境/長時間労働に関する議論につながる何かが透けて見えるというか。

 

Yahoo!知恵袋でもこう質問している方がいます。

 

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ベストアンサーがこちら。

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なんて穏やかなやりとり!と思いつつ、確かにあるのは、「教員は『労働者』であり、募集に際しては給与や待遇に関する必要な情報が提供されるべき」という考え方を、学校が一切無視してしまえる現実です。(仮にそうでなかったとしても、それ以外にとらえようがない。)これがあまりにも当たり前になっているので、ついには応募者側がこの状況を受け入れることまで当たり前になっている、ということなのではないでしょうか。

 

余談ですが、これに関連して思い出すエピソードがあります。私が以前の職場に勤めて5年以上経っていた頃ですが、放課後の職員室でこんなやりとりがあったんです。

A先生「定時って17:15?17:30?」

全員「やー、どっちですかね」

私「こんなに人がいて誰も知らないとかあります?」

A先生「あとさ、俺たちって有給あるの?」

全員「やー、どうですかね」

私「ちょ」

ここには10年以上勤めている先生も複数いたのに、このありさまです。まあ、たしかこの時は20:00過ぎていたと思うので、こういう質問に答えられるような先生はすでに帰宅しているというオチもあるのですが。

 

そんなわけで。

 

「本校規定による」、やめませんか? せっかく学校のマネジメントが話題になっている今なので、その波に乗って、教員が他の労働者と同程度に入職前に労働条件について十分に情報開示をされるよう強く願います。(Change.orgとかしますか?)先生一人一人が自分がどんな条件の下で働いているかを知ることは、下からの「働き方改革」につながっていくと思います。

 

次回は指導に関する話題に戻りたいと思います。それではまたその時まで。

 

Happy teaching, my friends!!

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「日本は『学校英語』にどこまで期待していいのか問題」について

こんにちは。

 

昨今の教員の労働環境/長時間労働に関する議論を見ながら「ここまでが学校の先生がやる仕事」と線を引くことができたら、そして、その線を守るための(学校・家庭・地域を巻き込んだ)仕組みができたら…と思っている最中に「日本の学校での英語教育」に関する論文を読んでいたところ「『ここまでが学校英語が教えること』と線を引くとしたらどうなるか」という疑問が浮かんできたので、今回はそれについて書いてみます。

 

ちなみに、タイトルで「日本は」としたのは、このエントリーでは文科省がどう言っているかに注目しながらその「線」について書こうと思っているからです。

 

ある人がどれくらい「学校英語」に期待するかは完全に個人の自由で、保護者が「うちの子には留学しても困らない程度の英語を」と思ったり、社会に出てから英語を使う必要に迫られた人が「ネイティブの会話が聞き取れるくらいになっておきたかった」と思ったりするのは別にあっていいことです。それでも、今回文科省がどう言っているかに注目することにしたのは、そういう個人の「学校英語、こうであってくれよ」という声がよく聞こえてくる一方で、日本という国が「学校英語」が目指すべき到達目標をどう設定しているかがはほとんど話題にのぼってこないような気がしたからです。日本で学校に通う生徒はそもそも学校英語にどこまで期待していいのか?それを学習指導要領を見ながら考えてみたいと思います。

 

本題に入る前に、「日本の学校での英語教育」に関する英語で書かれた論文がどんな感じかについて少し触れておくと、とは言っても私が読んだのは10数本だけですが、ほとんどが以下のことに触れていました。(論文は先行研究を踏まえて書かれるのがルールなので、同じ分野の論文で内容がけっこう重複していることはふつうにあります。)いずれの論文も小・中・高・大のどれかもしくは複数をカバーしていたので、以下の「課題の提示」の中の「学校教育」というのは文字通り「学校での教育一般」を指します。

 

課題の提示:日本の学校での英語教育は英語でのコミュニケーション能力を育てることに成功していない

理由の考察

【歴史】明治時代、英語学習の最大の目的はコミュニケーションではなく「情報収集」だった。その当時用いられていた指導法(文法+訳読)が今でも色濃く残っている。

【政府】近年、学習指導要領ではコミュニカティブな指導を推進しているが、学校現場に浸透させられていない。

【入試】センター試験に対応しようとするとコミュニカティブな指導が後回しになる。

【養成】第二次世界大戦後、教員不足を解消するために多くの大学に教員養成課程を置いたことで、教員の質を保証することが難しくなった。

【教員】英語力不足。指導力不足

 

いろいろ突き刺さってきますね。(教員養成については考えていることがたくさんあるのでまた後日。)

 

さて、ここからが本題です。

 

多くの論文で(、そしてその他のいたるところででも)課題山積みとされている「日本の学校での英語教育」。では、生徒がどんなパフォーマンスをどこでまで達成できたら「成功」しているとみなされるのでしょうか。ここでは、義務教育で区切って、中学校までで考えてみます。中学校卒業時に英検3級合格、というのがよく見かける目安かもしれません。が、先にも述べた通りこのエントリーでは文科省がどう言っているかに注目したいと思います。

 

以下、『中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 外国語編』からの抜粋です。

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「外国語の目標」はこんな感じです。

外国語教育の特質に応じた、生徒が物事を捉え、思考する「外国語によるコミュニケーションにおける見方・考え方」を働かせ、外国語による「聞くこと」、「読むこと」、「話すこと」及び「書くこと」の言語活動を通して簡単な情報や考えなどを理解したり表現したり伝え合ったりするコミュニケーションを図るために必要な「知識及び技能」、「思考力、判断力、表現力等」、「学びに向かう力、人間性等」の資質・能力を更に育成する(p.6)

前半は「言語活動」に必要な知識や能力について、後半はその言語を活用した「コミュニケーション」に必要な能力について、という感じですね。ただ、この「外国語の目標」と卒業間近の中3生を並べて「う~ん、できてるかな~、どうかな~」と評価しようとしてもできないので、より具体的な文言を見てみます。

 

以下が、第2節1の「英語の目標」です。(p.17~)

 (I)聞くこと

  1. はっきりと話されれば、日常的な話題について、必要な情報を聞き取ることができるようにする。
  2. はっきりと話されれば、日常的な話題について、話の概要を捉えることができるようにする。
  3. はっきりと話されれば、社会的な話題について、短い説明の要点を捉えることができるようにする。

 

(II)読むこと

  1. 日常的な話題について、簡単な語句や文で書かれたものから必要な情報を読み取ることができるようにする。
  2. 日常的な話題について、簡単な語句や文で書かれた短い文章の概要を捉えることができるようにする
  3. 社会的な話題について、簡単な語句や文で書かれた短い文章の要点を捉えることができるようにする。

 

(III)話すこと[やり取り]

  1. 関心のある事柄について、簡単な語句や文を用いて即興で伝え合うことができるようにする。
  2. 日常的な話題について、事実や自分の考え、気持ちなどを整理し、簡単な語句や文を用いて伝えたり、相手からの質問に答えたりすることができるようにする。
  3. 社会的な話題に関して聞いたり読んだりしたことについて、考えたことや感じたこと、その理由などを、簡単な語句や文を用いて述べ合うことができるようにする。

 

(IV)話すこと[発表]

  1. 関心のある事柄について、簡単な語句や文を用いて即興で話すことができるようにする。
  2. 日常的な話題について、事実や自分の考え、気持ちなどを整理し、簡単な語句や文を用いてまとまりのある内容を話すことができるようにする。
  3. 社会的な話題に関して聞いたり読んだりしたことについて、考えたことや感じたこと、その理由などを、簡単な語句や文を用いて話すことができるようにする。

 

(V)書くこと

  1. 関心のある事柄について、簡単な語句や文を用いて正確に書くことができるようにする。
  2. 日常的な話題について、事実や自分の考え、気持ちなどを整理し、簡単な語句や文を用いてまとまりのある文章を書くことができるようにする。
  3. 社会的な話題に関して聞いたり読んだりしたことについて、考えたことや感じたこと、その理由などを、簡単な語句や文を用いて書くことができるようにする。

*箇条書き設定でアイウという選択肢がなかったため、123にしています。

具体的な評価基準ファンの私にとっては、これは見ていてニコニコしてしまうCan-doリストです。というのも、Can-doリスト自体は「目標」なのですが、その「目標」が明確になっているおかげで、ではその「目標」が達成されたかをどう「評価」するのか、そしてその「評価」において生徒が満足な結果を出すためにはどんな「学習活動」が必要になるのか、とバックワード・デザインが描けるのがわかるからです。

 

たとえば、「(I)聞くこと」の「1. はっきりと話されれば、日常的な話題について、必要な情報を聞き取ることができるようにする。」を見てみます。実際の指導では、「正しい発音で英語を理解できるように。スピードにはまだこだわらない」、「背景知識がある話題を扱う。日本語でもわからないような話題は特に触れない」、「必要な情報を聞き取ることに集中。意味内容に支障が出ない部分は聞けなくてもよい」などと、指導の焦点を絞って、目標を一直線に目指していくような授業が毎回できそうです。

 

これを、「1」の各項目は中1、「2」の各項目は中2、「3」の各項目は中3、とするだけで、カリキュラムの大枠ができると思います。あえて「1」「2」「3」をごちゃまぜにしたカリキュラム(例:イマージョン)ももちろんできますが、習熟度が多様な大人数のクラスでそのカリキュラムで指導した場合(言い換えると、ゆるく体系化された指導をした場合)、すでにできる生徒がもっとできるようになり、ゆっくりな生徒がさらに後れをとることになるということも、研究では言われています(Clark et al., 2012)。

 

と、話が指導方面に逸れましたが、たとえば、上記のCan-doリストの「3」の各項目を「中学卒業時に到達したい目標」と考えて、それが達成されていれば「学校英語は成功」と言っていいことにするのは、どうでしょうか?(誰にともなく問いかけてみました。)

 

私はこの「3」の各項目は「学校英語の成功」を表す「線」として見ていいし、そうすべきだと思います。たいした理由はないのですが(すみません)、有識者が知恵を寄せ合って出した現段階でのベストな案のように見えますし、私自身一英語学習者としても、中3生を指導してきた教員としても、今大学院で教育学を学んでいる学生としても、特に文句のつけどころがないからです。少し強めに「そうすべき」と書いたのは、私が具体的な評価基準ファンだからというだけの理由です。(すみません。)

 

というか、公立の先生であれば、「文科省が言っているから」という理由で自動的にこれが正式な「線」として認識されていますよね、きっと。そんなこともありませんか?(まだ公立校で働いたことがないので、全然わかっていなくてすみません。というかいろいろすみません、本当に。)

 

高校入試に関係なく、本当に「3」の各項目を「中学卒業時に到達したい目標」と設定してまっしぐらに英語指導ができたら、相当面白いだろうと思うのですが、それは今はまだ夢の世界の話ということで横に置いておきます。

 

ただ、高校入試がこの「3」の各項目の到達を評価する内容に全然なっていなくて、高校入試は高校入試のためにそれ用の勉強をしなければならないのが実情なのだとしたら、それは横に置いておけない話で、というのは、それのせいですべての項目がサクッと入試項目に置き換えられてしまうことにつながりかねないからです。英語の入試は今のところ筆記なので、そうなるとまずIII、IVは消えてしまうでしょう。これは多くの論文が指摘するのを待つまでもなく、日本人にとってはもはや「学校英語あるある」とも呼べる課題です。

 

長くなりすぎて何を言いたいのかわからなくなってきたので、この辺りで終わりにしたいと思います。そんなわけで、今回は「日本で学校に通う生徒はそもそも学校英語にどこまで期待していいのか?」を学習指導要領を見ながら考えてみました。先生たちに「おっ」と思っていただけるようなことがあったらよいのですが、なんせ学習指導要領を紹介しただけなので、ないかもしれませんね。

 

次回はもう少しきちんとしたことが書けるように心がけます!それではまたその時まで。

 

Happy teaching, my friends!!

 

参考:

『中学校学習指導要領(平成29年告示)解説 外国語編』http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2018/05/07/1387018_10_1.pdf

Benthien, G. (2017). The transition from L2 learner to L2 teacher: A longitudinal study of a japanese teacher of english in japan. Apples – Journal of Applied Language Studies, 11(2), 85-102.

Clark, R. E., Kirschner, P. A., & Sweller, J. (2012). Putting students on the path to learning: The case for fully guided instruction. American Educator, 36(1), 6-11.

Hosoki, Y. (2011). English Language Education in Japan: Transitions and Challenges. Retrieved February 6, 2019, from http://www.academia.edu/24913482/English_Language_Education_in_Japan_Transitions_and_Challenges_1

Steele, D., & Zhang, R. (2016). Enhancement of teacher training: Key to improvement of english education in japan. Procedia - Social and Behavioral Sciences, 217, 16-25.

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「教えること」はアート?サイエンス?

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Photo by Louis Reed on Unsplash

こんにちは。

 

今日は、前回のエントリーの内容に続く形で、「教えること」に対して各先生が無意識に抱いている(であろう)スタンスについて書きます。

 

簡単に言うと、「教育は芸術だ!」と思っているか「教育は科学です」と思っているかどうかです。かえって意味がわかりませんね。言い換えると、教育に携わっているとき、「自分は計測不可能なで、そして予測不可能なものを扱っている」と思っているか「自分は計測可能なもの、予測可能なものを扱っている」と思っているかどうかです。

 

ここでどちらのスタンスを取るかが、各先生の日々の指導の在り方を決定します。ただし、このスタンスは、必ずしも各先生が個人的に選び取っているわけではなく、学校長や教科主任が取っているスタンスに影響を受けているでしょうし、もっと言えば、学校長や教科主任も国や地方自治体のスタンスに影響を受けているでしょうし、さらには国や地方自治体は時代のスタンス(要は流行り)に影響を受けているはずです。

 

余談ですが、私立学校は、学校を超えるものからの影響をどれくらい自校の教育に反映させるかを自分たちで決められるという点で、公立学校に比べて、独自のスタンスを打ち出しやすくなりますね。

 

戻りまして。結論から言うと、現在は圧倒的に「教育は計測可能なもの、予測可能なものを扱っている」というスタンスが優勢になっていると私は見ています。つまり、「教育は科学です」のスタンスです。

 

ここでちょっと注意したいのは、「教育は科学です」のスタンスはSTEM教育に力を入れているとかそういうことを別に意味しないということです。そうではなくて、たとえ芸術教育や情操教育にものすごく力を注いでいるとしても、その根底に「自分がしている教育は計測可能なもの、予測可能なものを扱っている」という信念があれば、それは「教育は科学です」のスタンスを取っていることになります。

 

実は、2つのスタンスに関するこの理解の仕方は私には目から鱗で、というのも、私自身が一教員として情操教育やソーシャル・エモーショナル・ラーニングと言われるものを大きく買っていて、そういう自分の中に「教育は科学です」的な視点があると思ったことがまるでなかったからです。むしろ「計り知れないこの人間の子どもという生き物と日々学んでいる」くらいの気持ちでいたので、どちらかといえば自分は「教育は芸術だ!」派だと思っていました。でも今あらためて振り返ると、よりよい情操教育がなされるように組まれたカリキュラムや課外活動を通じて比較的体系的に生徒に一定の学習経験を与えていたことが思い出されて、「あれ、私もしかして『教育は科学です』派の人?」と初めて思うに至り、自分でもびっくりした、というわけです。

 

前回のエントリーとつなげると、これはたぶん1960年代のアメリカの教育の流行りに大きな影響を受けているのではないかと思います。専門家の意見に頼りながら、根拠に基づいて最短距離で成功を成し遂げることを目指すというアレです。この教育観および教育の在り方に対する反発は常に出続けていますが、それでも今現在の教育のそこここにそれらを見つけることができます。

 

たとえば、SMART教育。私がいるカナダのBC州では交通標語のようにしょっちゅう出てきますが、どうでしょう、企業の会議で出てきそうな単語がずらりと並んでいます。

Specific(具体的)

Measurable(計測可能)

Attainable, Achievable(達成可能)

Relevant(関連性がある)

Timely(タイミングがよい) 

BC州では幼~高のどんな教育活動もSMARTであるべきだという考え方がほとんど当たり前になっているように見えます。これはどう考えても「教育は科学です」のスタンスに基づいていますね。

 

このスタンスに基づくと、私がこれまでに書いてきたような「具体的な目標設定大事!」「ルーブリックいいよ!」「バックワード・デザインいいよ!」みたいな指導を支持することに結果的につながります。

 

そんなわけで、私自身、自分でも驚きながら、けっこうゴリゴリの「教育は科学です」のスタンスを取って今はブログを書いていますが、客観的に考えると、これも一種のマイブームみたいなものかもしれません。

 

というのは、私自身日本の教育の非科学的な面が生み出す問題に大いに苦しんでいたので(「これ何でやってるんだろ…」と思わざるを得ない活動をやらなければいけないとか)、カナダに来て、今はそこに対する批判精神が大いに花開いている(笑)最中なのだろうと自分でも思うからです。

 

それでも、SMART教育や「教育は科学です」のスタンスが教育活動の改善に貢献できるのは間違いないので、これからしばらくは日本の教育改革はそっち方向を目指すのではと思います。北米ほどではなくても、今後日本も社会自体が「費用対効果」だとか「効率性」だとかもっともっと優先するようになってくれば、なおさら、「科学的に教育する」ことに対する支持は高まるでしょう。

 

ただ、ここで問題になるのが、「そうは言っても、教育って、計測できないもの、予測できないものも扱ってるじゃん」という事実があることです。

 

計測可能性に関しては、たとえば、テストがわかりやすい例です。テストは生徒の成長を測るための最もメジャーなツールです。でも実際には「テストが測れるのは生徒の成長の『一部』」だというのは、多くの先生に頷いていただけるところかと思います。

 

不十分な計測は、生徒の学びを誤った形で表し、それによって生徒の学力向上を妨げたり学習意欲を損なったりします。生徒の成長をよりよい形で表せるよう多くの改善が今後なされたとしても、やはり測れるものと測れないもの、数値化できるものと数値化できないものというのはあり、「完璧な計測」は不可能だと私は思っています。

 

予測可能性に関しては、たとえば、バックワード・デザインで授業を計画する場合、その授業は「Aをすれば生徒はBのように反応する」という予測に基づいて綿密に計画されていると言えます。英語でいうと、「一般動詞に集中して反復練習すれば、生徒は一般動詞とbe動詞を混同しなくなる」のような。ここには「シンプルにすれば、生徒の理解が高まる」とか「反復練習をすれば、生徒は自然に学習事項を身に着ける」とかいった予測も含まれています。

 

こういう予測は、先生自身の経験や先輩の先生の経験や先行研究によって裏付けられていることも多く、実際に精度も高かったりして、予測すること自体は問題ではありません。でも、前回のエントリーで紹介した本の中でも多くの教育研究者が問題にしているのは、「予測に基づいて指導することによって、生徒の『予測不可能な成長』を妨げている」という部分です。生徒が予測した以外の反応を示したとき、「教育は科学です」派の指導はその反応を誤差として扱って、生徒を本来のルートに戻そうとするしかありません。これが「教育は芸術だ!」派だったら、きっとその誤差を喜んで受け止め、それを活かす方向で指導を展開させていくと思います。

 

これを読んで下さっている先生、「教育は芸術だ!」派ですか?それとも「教育は科学です」派ですか? それぞれの先生が違った割合で折衷派だというのが現実だと思いますが、この問いを頭に置いてこれまでの授業や指導を振り返ることで、今後に活かせるような発見をしていただけたらうれしいです。

 

次回もまた指導について書く予定です。それではまたその時まで。

 

Happy teaching, my friends!!

 

参考:

Flinders, D. J. & Thornton, S. J. (2004). The Curriculum Studies Reader (2nd ed.). New York, NY: Routledge Falmer.

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教育の「流行り」を考える:20世紀アメリカの教育思想史もほんの少し

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こんにちは。

 

今日は教育の「流行り」についてです。

 

教育現場の真っただ中で日々格闘していると、自分がしている教育活動が自分独自のもの、もしくは自分が所属している教科会や学校独自のもののように感じられることがあると思います。この「感じ」はある程度正しそうですが、でも残りのある程度は、実は自分が生きているその時代の教育の「流行り」を反映させているに過ぎないかもしれません。

 

そんなわけで、今回は歴史音痴の私が一生懸命教育史らしきものに言及するので、それを助けてくれる本の紹介から始めます。

Flinders, D. J. & Thornton, S. J. (2004). The Curriculum Studies Reader (2nd ed.). New York, NY: Routledge Falmer.

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 この本は北米の教育に大きな影響を与えた(ている)研究者の代表作をまとめたアンソロジーです。要は、アメリカ教育思想史ですね。(私は今カナダの大学院で勉強していますが、授業で扱われる文献はアメリカの研究者によって書かれたものがほとんどです。ちなみに、私の日本の教育史に関する知識・理解はゼロに近いので、いつか日本の教育史も勉強したい…)

 

さて、この本の目次はオンラインで確認できると思うのですが、こんな人たちが出てきます。

Franklin Bobbitt

John Dewey

Ralph W. Tyler

James Popham

Paulo Freire

Maxine Greene

Michael W. Apple

Elliot W. Eisner

Nel Noddings

 

あらためてこのラインナップを見てみると、これ、20世紀の始まり前後から今現在までしかカバーしていませんね。それでも、この短期間にも波のように教育の「流行り」が変遷しています。

  • 世界恐慌期:民主主義と資本主義に潜む不正義への批判的視点から、社会科のカリキュラムが活動家的な性質を帯びる。
  • 第二次世界大戦期:社会が保守化し、教育が持つ活動家的な側面が薄れる。
  • 冷戦期:国防のために、数学、科学、外国語学習が重宝される。専門家によって、根拠に基づいた方法で、教育が成功に導かれることへの期待が高まる。

 

本の中で21世紀以降がまだ上記のようにラベリングされていないのは、おそらく21世紀以降が「現代すぎる」からだと思いますが、それでもそのうち「技術革新」「人とモノの流動性」「多様化」などがキーワードになってそれらと教育との結びつきによって何らかのラベリングがされるような気がします。(もし私が読み落としているだけだったらすみません!)

 

あとは、ここまで大きな社会的事象がなくても、教育に「流行り」はできます。それは、教育界が常に「教育改革」「学校改革」を行っているから。「教育界はいつも学校改革をしている」と批判していたのはこの本の中だとアイズナーだったと思いますが、これは私のような平教員にはピンとこなかったとしても、彼のように第一線にいる教育のリーダーたちにはまぎれもない現実だと思います。

 

で、いつも学校改革をしていると何が起きるかというと、たぶん次の2つではないでしょうか。

  1. 現在の教育方法やそれを支える価値観の見直し
  2. 他の成功している分野・業界の方法論や価値観を取り入れる

で、これは私が大いに頷いた部分で、でも誰が言っていたかは忘れてしまったのですが、ここで教育界がやってしまうのが「全取っ替えに走ってしまうこと」なのだそうです。例えば、他の業界であれば「Aの欠陥を改善して、A-1-1を試作してみましょう」となるところを、教育界は「Aには欠陥があるので捨てて、Bに行きましょう」と行ってしまうと。

で、これがどんな「流行り」の波を作るかというと、私が予想するのは、何かしらの二極の間を常に行ったり来たりするタイプの波です。たとえば、「つめこみ」と「ゆとり」とか、「知的教育」と「情操教育」とか。英語という教科で言うと、「文法重視」と「コミュニケーション重視」とか。現行の教育活動のうまくいっていない箇所に注目しては、それを切り捨て、新しい成功モデルを採用し、また不具合を見つけ、それを切り捨てる。

で、ここに社会の大きな流れが合流すると、「ICTを活用しながら生徒の個性を生かした学習を実現する」といったような、さらに一段階大きな教育の「流行り」ができるのではと。

 

そんなこんなで、「大きな社会的事象×教育界の恒常的な学校改革」が一人一人の先生の日々の意思決定や実践にある程度は影響しているのではというのが私の考えです。

 

学校現場というのは年がら年中アホかというくらい忙しくて、それは先生方が常に問題や課題に直面しているからなのはもちろん、児童・生徒・学生や彼らの保護者、または同僚や管理職や地方自治体が「スピーディーな解決」を求めてくるからだと思います。直接そう言って迫ってくる人は珍しくても、少なくとも、先生たちはそのプレッシャーを実感していると思います。

 

そんな場合に、目の前の問題や課題について思いつく解決策を挙げた後で、そこにどんな根拠があるか、それがどれくらい今の流行りに影響されているのかをチラリと確認できると、より効果的な意思決定とその実施ができるかもしれません。それが、児童・生徒・学生とのかかわり方であっても、シラバスや授業案の作成であっても、それこそ学校改革であっても。

 

次回はこれに関連したことをさらに書きたいと思います。それではまたその時まで。

 

Happy teaching, my friends!!

 

参考:

Flinders, D. J. & Thornton, S. J. (2004). The Curriculum Studies Reader (2nd ed.). New York, NY: Routledge Falmer.

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教員にとって「裁量権が大きい」が意味することとは?:長時間労働の原因をマネジメントの視点から考える

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こんにちは。

 

このブログで教員の働き方について書く予定はなかったのですが、気持ちが向いたので今回はその辺りのことを書いてみます。

 

今回の主な参考文献はこちらです。

Wermke, W., & Höstfält, G. (2014). Contextualizing teacher autonomy in time and space: A model for comparing various forms of governing the teaching profession.

これは私にとってものすごくインパクトの大きい論文で、一生忘れないと思います。というのは、この論文が私に「教員に大きな裁量権が与えられているというのは教員にとって本当に良いことなのか?」ということをまったく新しい視点から考えさせてくれたからです。

 

たとえば、1年目のA先生に授業計画から定期テストの作成や成績算出までが任されているような状況は、その先生にとって「教員に大きな裁量権が与えられている」もしくは「自由度が高い」と言えると思います。実際にここまで極端な例はほとんどないと思いますが、これに近い話はあるかもしれません。

 

このような場合、「やあ~、A先生は自由にやらせてもらえるんだねえ!」という受け止め方が一般的かと思います。そして当のA先生自身もやりがいを感じて業務に専念しているのではないでしょうか。

 

特に、文科省などが言っているように教員を専門職だとした場合、「大きな裁量権」というのは殊更に重要なものだとみなされる傾向があるように思います。たとえば、私のカナダでのクラスメートが「ある海外の学校で教え始めた時に、学期の初めに完成したパワーポイントを渡されてそのとおり授業をするようにと言われた」という話をしていてクラスがざわついたことがありましたが、これは「裁量権ほぼゼロ」な状態です。何も考える必要がないという意味では楽と言えば楽かもしれませんが、いつかどこかの時点で「私、いらないんじゃ…?」となるかと思います。

 

私自身、かなり長く学校で勤めていた中で一度もこの「大きな裁量権」について疑問視したことはありませんでした。

 

そして学校を退職して偶然出会ったのがWermke & Höstfält (2014)の論文でした。私にとって目から鱗だったのは、彼らが「マネジメント」の視点から学校教育を分析していたことでした。「裁量権」をカテゴライズしながら、「ある種の裁量権が大きいことは教員を自由にするが、別のある種の裁量権が大きいことは教員の負担を増やすことにつながりやすい」という趣旨のことを、ヨーロッパ数か国の教育の現代史を振り返りながら掘り下げています。

 

ちなみに、著者2人は活動拠点がスウェーデンにあり、論文自体は「スウェーデンの公教育に対する建設的な批判」のように書かれています。

 

まず、2人は学校のマネジメントを以下のように2分しています。

  1. 「過程(プロセス)コントロール型」
  2. 「結果(プロダクト)コントロール型」

 

1は「結果はどうなっても構わないけれど、この過程(指導法)はきっちり踏んでください」、2は「過程(指導法)はどうなっても構わないけれど、結果はきっちり出してください」というマネジメント方法です。このエントリーでは日本に注目して考えようと思うのですが、どちらが日本の学校教育だと思われますか? 私なら2だと答えます。

 

日本では、表面的には、各先生がノルマを追って何かしている学校は多数派ではないと思いますが、先生が期待されている結果を出せなかった場合に、たとえば「仕事が増える」というような形で結果的にペナルティーと同等のものが課されているような状況はいくらでもあると思います。たとえば、

  • 担任しているクラスの生徒を全員進級・進学させられなかった場合
  • 受験学年が例年よりも良い結果を出せなかった場合

などでしょうか。

 

さて、この「結果コントロール型」の学校で「教員の裁量権が大きい」ということは何を意味するでしょうか。Wermke & Höstfält (2014)は丁寧に論じていますが、簡単に言うと以下のようになります。

  • 「目標とされる結果」に対しては、教員は相変わらず裁量権を持たない
  • 「目標とされる結果」が達成されたかどうかを測る方法についても、教員は相変わらず裁量権を持たない
  • 「目標を達成する過程」については大きな裁量権がある

 

著者はこのような裁量権をservice autonomyと、そして、ここでの教員をservice deliverersと呼んでいます。ありそうな結末は、教員が「サービス」をどんどん拡大していくことです。そうでないと、目標を達成できないので。(すでに力があって心身ともに健康な生徒を入学させてそのまま卒業させるのであれば話は別ですが、それができる学校は実はないのではないかと私は思っています。)

 

本の学校の先生は、管理職からはっきりそうとは言われていなくても、暗に「期待されている結果」があることを感じていて、そのために自分の「サービス」を拡大しているように思います。そして、管理職もそれを制限しようとしない。根本にあるのは、「生徒のためになることなら何でもしたい」という先生(管理職も含めて)の思いだと思います。それ自体は問題ではないのですが、これが結果として招く教員の「働き方」には大きな課題が潜んでいます。過労死ラインに届くような長時間労働や燃え尽きがその先に見えているので。

 

ここで注目したいのが、Wermke & Höstfält (2014)がフィンランドをservice autonomyの低い国に分類していることです。マネジメントに関して言うとフィンランドは「過程(プロセス)コントロール型」として分類されています。詳しく書かれていないのでこれは論文全体からの私の推測になりますが、「フィンランドでは『指導法』に関してはわりと統一化された指針があり、かつ、『教育目標やその達成を測定する方法』に関しては教員が比較的大きな裁量権を持っている」ということかと思います。(全然違ったらすみません!)

 

「教育と言えばフィンランド」のフィンランドが日本とは違ったマネジメント方法を取っているということは、知っていて損はないかと思います。ただ、フィンランドはそもそも日本や北米と同じ土俵にいない感じがかなりあるので、「フィンランド式~」からどこまで日本で実行可能なものを抽出できるかはまた別の話になりそうです。

 

最近のメディアで報じられている「働き方改革」を見ていると、マネジメントのレベルでの取り組みと先生個人のレベルでの取り組みがあるだけでなく、「マネジメントのレベルでの取り組みに見えて結局は先生個人のレベルでの取り組みになっている取り組み」というのもあります。私の希望としては、マネジメントのレベルでの取り組みがもっともっと進んでほしいです。

 

それでは、次回はまた何か指導に関することに戻ろうと思います。それではまたその時まで。

 

Happy teaching, my friends!!

 

参考:

Wermke, W., & Höstfält, G. (2014). Contextualizing teacher autonomy in time and space: A model for comparing various forms of governing the teaching profession. Journal of Curriculum Studies, 46(1), 58-80.

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