先生のためのアイディア帳

効果的な指導法やエトセトラについて

東京の子と地方の子は違うのかもしれない。

<a href="https://unsplash.com/ja/%E5%86%99%E7%9C%9F/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%A2%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AB%E6%A8%AA%E3%81%9F%E3%82%8F%E3%82%8B%E4%BA%8C%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%A5%B3%E6%80%A7-zHJ4ph3GRyg?utm_content=creditCopyText&utm_medium=referral&utm_source=unsplash">Unsplash</a>の<a href="https://unsplash.com/ja/@itfeelslikefilm?utm_content=creditCopyText&utm_medium=referral&utm_source=unsplash">🇸🇮 Janko Ferlič</a>が撮影した写真

Unsplash🇸🇮 Janko Ferlič

東京都を離れ、地方の公立中学校で働き始めてから一年が経とうとしています。「子どもはどこへ行っても同じ」と感じる一方で、「東京の子と地方の子は違うのかもしれない」と思うこともあり、これは私にとっては一つの発見でした。

 

実際に、子ども一人ひとりには、どこへ行ってもそれほど違いがあるとは思いません。ですが、子どもたちが集団になると、傾向のようなものが現れてきます。

 

今年度一年間、地方の公立中学校の生徒たちを見ていて私にとって新鮮だったのは、彼らがもっている「落ち着き」でした。気に障ることがあっても取り乱さない。困ったことがあっても取り乱さない。うまくいかないことがあっても取り乱さない。少し取り乱しそうになってもすぐに落ち着きを取り戻す。

 

「東京の子はませていて、地方の子は素朴」といった単純なステレオタイプでは説明しきれない、現任校の子たちのこの「落ち着き」。

 

なぜこうなのかはよくわかりません。物事が思い通りにいかないことに慣れているのか、周りの人への期待値が低いのか。家庭教育と小学校までの教育の中で、何らかの価値観と経験が育まれてきたのか。

 

なお、保護者と生徒の傾向として私が見取っているのは以下ようなことです。

 

共通点

  • 共働きの家庭が多い。
  • 父母が等しく教育活動に関わっている家庭が一定数ある。
  • 地域の横のつながりがあり、父母間での情報交換がさかん。
  • 兄弟姉妹の数が多い。
  • 不登校生徒・教室に入れない生徒は1クラスに2~3名いる。
  • 部活動・クラブチームへの参加率は90%ほど。
  • 塾や家庭教師を利用する率は受験期に向けて上がり、最終的にはほぼ100%になる。
  • 子どものスマートフォン・インターネット・SNS利用率は同程度。

相違点

【東京】

  1. 保護者が大卒の場合が多い。
  2. 高校は進学校を受験し、四年制大学を目指す場合が多い。
  3. 引き取り訓練(避難訓練)には半数ほどの保護者は来ない。
  4. 授業参観には半数ほどの保護者は来ない。
  5. 地域の催しが生活の中心になっていない場合が多い。
  6. メディアの世界と現実の世界が近い。(「行こうと思えば毎週末原宿に行ける」という意味で)
  7. ADHD(注意欠如・多動症)的な言動をする生徒の割合が高い。

【地方】

  1. 保護者が大卒でない場合も多い。
  2. 高校卒業後、地元での就職を検討している場合も多い。
  3. 引き取り訓練(避難訓練)にほぼ全員保護者が来る。
  4. 授業参観にほぼ全員保護者が来る。
  5. 地域の催しが生活の重要な部分を占めている場合がある。
  6. メディアの世界と現実の世界に距離がある。

 

こうしてまとめようとしてみて自分でも初めて気づきましたが、相違点の【東京】の7番目、「ADHD(注意欠如・多動症)的な言動をする生徒の割合が高い」は、私がいた東京の中学校の子どもたちの特徴の一つでした。

実際、これは教室での子どもたちの言動にとても大きな影響を与えます。集団行動をする子どもたちを思い浮かべればすぐわかるように、子どもたちの言動は伝染します。一人が大きな声を出せば、続いて大きな声を出す子が出てくる。一人が立ち歩き始めれば、他の子も立ち歩くようになる。

ですが、逆に、「ADHD的な言動をする生徒」の数が少数でありさえすれば、他の子どもたちはそれほど影響を受けることがなく、むしろ、「ADHD的な言動をする生徒」たちが、「落ち着いた生徒」たちに引っ張られる形で、落ち着いてきます。

現任校はまさにこのよい例で、大多数の落ち着いた生徒たちがその他の生徒たちのADHD的な言動を抑制しています。そして、ADHD的な言動というのは、成長につれて自然に収まっていくので、高校に上がるころにはさらにいっそう集団としての落ち着きが高まっていくはずです。

 

ADHDは脳の発達に関わる症状で、後天的な環境や教育が原因ではなく、また、医療によって対処するものです。ですが、「ADHD的な言動」というのは、後天的な環境や教育によって助長されたり抑制されたりするのだろうと、子どもたちを見ていて思います。

そういう意味で、受験のストレスやメディアの刺激にさらされる機会の多い東京では、集団としての子どもたちの言動が「ADHD的」になりやすいのではないかと想像します。

 

とは言え、東京の前任校が極めて例外的な中学校だったのかもしれません。もっと経験を積んでいく中で、結局「子どもはどこへ行っても同じ」という雑感に戻っている気もします。そんなわけで、本日は長い独り言でした。

 

Happy teaching, my friends!!

Creative Commons License

「正解」の保護者対応とは

こんにちは。

今日は教員のウェルビーイングについて書いてみます。特に、私が教員のウェルビーイングのカギだと思っている「保護者との信頼関係」に焦点を当てて書いてみたいと思います。

 

なお、「ウェルビーイング(well-being)」の定義は以下の通りです。

OED:

the state of being healthy, happy, or prosperous; physical, psychological, or moral welfare

健康、幸せ、また順調である状態。身体的、心理的、道徳的に健康で幸せな状態。(訳:私)

 

教員が心身ともに幸せで健康に働くために絶対必要なもの。先生によって挙がるものの内容も数も違うと思います。私自身に関して挙げてみると、以下の4つです。

  1. 休養
  2. 教科指導力
  3. 尊敬できるボス
  4. 保護者との信頼関係

理由はこんな感じです。

  1. 休養:ないと心身がダメになり、何もかもうまくいかない。
  2. 教科指導力:私は授業を通じて生徒との人間関係を作るタイプの教員なので、教科指導で生徒に認めてもらえないと他の分野ではもうカバーできない。
  3. 尊敬できるボス:教職はどうやっても心身に過剰なストレスがかかるので、主任や教頭を見ながら「あんなにすごいあの先生ですらあんなに努力している! いわんや私をや!」と己を鼓舞しないことにはやっていけない。
  4. 保護者との信頼関係:ないと心身へのダメージが驚くほど大きいばかりか、日常の業務が著しく滞る。

毎度前置きが長くなりましたが、このエントリーでは「4. 保護者との信頼関係」がなぜ大切か、そしてそれをどうやって得るかについて、思っていることや実践していることを書いてみます。

 

保護者との信頼関係がなぜ大切か

教育現場においても何事にも「説明責任」が求められるようになってから、もうだいぶ経ちます。問題が起きれば、それを保護者と共有して、理解を仰いだり、解決のために協力したりする必要があるということです。教員にとって、保護者は教育活動を共に運営していく存在だと私はよく感じます。

一方で、教職を「聖職」と見る保護者はもういない今、保護者からの理解や協力は無条件に得られるものではありません。「あの先生の言うことには同意できない」「あの先生のやることには不信感を持たざるをえない」と保護者が話すのを聞くことも珍しくありません。

こんなふうに、保護者の中に教員への不信感があると、学校で「何か」(下記の1~5がほとんどでしょうか)があったときに、それへの対応が想像を絶するレベルで大変になります。

 

保護者ー教員間でやりとりが発生する場合のほとんどは、教員宛か管理職宛に、電話・来校・手紙などの形で、生徒(保護者にとっての子ども)に関する質問・相談・要望が伝えられるところから始まります。内容は以下の5つ辺りに大別されるでしょうか。

  1. 生徒同士の人間関係について
  2. 生徒・教員間の人間関係について
  3. 生活指導について
  4. 部活動指導について
  5. 教科指導・成績について

これらについての質問・相談・要望を受けると、教員はだいたい次の手順で対応していきます。

  1. 然るべき部署の主任や管理職とその内容を共有し、対応を相談する。
  2. その件に関連する他の教員と情報共有をする。
  3. 生徒本人に話を聞く。
  4. 必要があれば、その件に関連する他の生徒にも話を聞く。
  5. 当該保護者に連絡をする。
  6. 必要があれば、来校してもらい、会って話す。
  7. その後も、必要な連絡を継続する。

 

この対応の基礎になるのが「保護者の教員への信頼」です。この件にあたっている教員に対して保護者が不信感をもっていれば、上記の手順はいくらでも難航します。なぜなら、この件の構図は「保護者=子どものために問題を解決しようする人」「教員や学校=その問題の原因(の一端)」だからです。

 

もしも私が教員を信頼していない保護者であれば、自分の子どもに何かあったときに教員に相談するのもそもそも嫌です。「どうせうちの子に非があったことにして、問題の解決のために何をするわけでもないのだろう」とか「どうせ自分や学校に都合のいいように話を進めて、問題そのものはうやむやにするのだろう」と思うでしょうから。「コイツ(教員)が諸悪の根源なのに、コイツ本人しか窓口がないのか…」とか「これで私も今日からモンスターペアレント扱いか…」とか、他にもいろいろ考えると思います。

 

根本のところでこういう気持ちがあれば、保護者ー教員間のやりとりはこじれやすくなり、問題解決に向かいづらくなります。むしろとことんこじれて最終的に学校が訴えられるというところまで行きつくこともあります。(事実、訴訟保険に入っている先生も多いです。)

 

逆に、保護者が教員を信頼していれば、お互いが率直に話をして、適切かつ迅速に問題を解決することができます。

 

保護者との信頼関係をどう築くか

保護者の本音を聞き出す。

これにつきます。たぶんこれは多くの先生にとっては答えではないと思うのですが、私にとっては、これが保護者との信頼関係を築くための正攻法です。

 

保護者から質問・相談・要望が来るというのは、教員にとっても怖いものです。ふだん「これで大丈夫」だと判断して行っていた実践の中で、実は生徒が問題を抱えているのだと気づかされるわけですから、教員としての自信喪失につながることもあるでしょうし、対応のために時間と体力を費やすことにもなります。

 

ですが一方で、保護者にとっても怖いと思うんです、学校に何かを申し出るというのは。わからないことだらけなはずですから。家庭で対応すべき問題と学校が対応すべき問題の違いは何か。問題がどれくらい深刻だったら学校に伝えていいのか。その問題についてどこまで話していいのか。

大人は「自分の問題は自分で解決するもの」という世界で生きています。なので、自分が抱えている問題(自分の子どものこと)について他人に話すこと自体が、すごく特別で覚悟の要ることだと思うんです。

 

保護者側のこういう「学校に言っても大丈夫かな?」という不安が強いままで話を進めていくと、問題の一部についてしか話をしてもらうことができなくなって、問題の解決を大幅に遅らせることにつながってしまいます。

 

小学校の頃からの人間関係、発達に関係する行動の傾向、家庭での過ごし方、保護者の仕事の忙しさ… 生徒にまつわるこういったいろいろな事柄を安心して話してもらう中で、保護者にとっても教員にとっても「問題の核心」が浮かび上がってくると、私は思っています。

 

やりとりの中で気を付けていること

保護者側の「学校に言っても大丈夫かな?」という不安を取り除くために私が気を付けているのは次の4つです。

  1. 連絡はマメに行う。
  2. 事実を隠さず伝える。
  3. 自分に非があったら素直に認め、謝る。
  4. 共感を言葉にしながら相づちを打つ。

理由は以下の通りです。

  1. その保護者の意見や考えが、学校側にとっても大切だと伝えられるから。
  2. 嘘は不信感しか生まないから。
  3. こちらが自己防衛モードに入ると、相手も自己防衛モードに入ってしまうから。
  4. 上辺でなく「本当に共感しています」ということをわかってほしいから。

 

もう少し細かく書いてみます。

 

「1. 連絡はマメに行う。」

自分の子どもに関する問題や指導について、「誰よりも早く・詳しく自分が知っていたい」「学校の考えだけでなく、自分の考えも聞いてから話を進めてほしい」と保護者が思うのは当たり前のことです。

何かが起きて、それが落ち着くまでは、毎日少しずつでも状況に変化があります。「家で子どもから聞いてもらえればいい」と思わず、教員からも連絡をすることで、教員が保護者に対して「学校での教育活動を進めていく上で、保護者であるあなたの存在の重要さを十分認識しています」というメッセージを送ることができます。

「あちらから連絡が来る前にこちらから連絡!」と思ってやっていれば間違いない、というのが個人的な手ごたえです。

 

「2. 事実を隠さずに伝える。」

学校で起きることには複数の人間が関わっています。嘘はバレます。学校側・教員側に不都合なことがあっても、それを隠し通すことはできません。事実を隠そうとしてあとで発覚した場合、そこで生まれた学校・教員に対する不信感というのはもうどうやっても消せないものかと思います。

 

「3. 素直に非を認め、謝る。」

私はこれがやりとりの中でカギになるのをよく感じます。私が素直に非を認め、謝った途端に保護者の声のトーンが変わって、「いえ、うちの子も良くないんですよね…」などと、さっきまでは共有してもらえていなかった「問題の新しい一面」を共有してもらえることが本当に多いです。

ちなみに、保護者が上記のように譲歩してくれた場合、私はそれに乗らないように気を付けています。「それもあるかもしれませんが、だからAさんが嫌な思いをしていいということにはなりませんよね。」「私の接し方に、Aさんに対して不公平だった部分があったことには変わりありません。本当に申し訳なかったです。」などと、あくまで自分側の問題から話を逸らさないようにします。相手に率直であってほしいので、まず自分が率直であろうと努めます。

これは、「私も悪かったから、あなたも悪かったことを認めてください」というのとは違って、単に、私からの「腹を割って話しましょう」というジェスチャーです。もちろん、こちらに非がなければ何を認めることも謝ることもないのですが、残念ながら私自身はつつかれると痛い部分ばかりな人間なので、「ああ、あれがダメだったかー、ごめんなさい!」ということが多いんですよね。「率直に話す」となると「素直に自分側の非を認めて、謝る」ことが自然と含まれてしまうという。とほほ。

ただ、人と人とはお互いに映し鏡のようになってコミュニケーションをとるものなのだからかどうなのか、私が「やー、ほんとすみません…」と出ると、相手も「やー、それはもうお互いさまで…」と来てくれることがほとんどです。理解ある保護者に恵まれていると言えばそれまでですが。

 

「4. 共感を言葉にしながら相づちを打つ。」

「そうでしたか、それは悔しかったですね。」「そうでしたか、それはずいぶん長い間いつも気になって学校にいるのも苦しかったですね。」などと、相づちはやや長めに言葉にして伝えます。そうすることで、「そうなんです。だから…」というふうに返ってくることもあれば、「いや、苦しいというよりはあきらめているというか…」というふうに返ってくることもありますが、いずれにしても、保護者や生徒が本当に思っていること・感じていることをより正確に把握できるヒントをどんどん出してもらえることにつながります。

やりとりが進む中で、「2.」「3.」も適宜入れてできるだけたくさんのヒントをもらえるようにしていくと、問題の全体像がどんどん見えてきて、解決に近づいていくことができます。

 

保護者の気持ちとしては、自分の困り感をしっかり受け止めてもらえて、つらかったことに対して謝ってもらえたら、それだけで、その相手の教員は「話しても大丈夫な人」になっていると思います。そしてさらに、その教員が問題解決のために適切に動くことができれば、今まで「不安感」だった気持ちが「信頼感」へと変化していくのだろうと思います。

 

保護者との信頼関係を築くために平時からできること

生徒とのやりとりを細心の注意をもって行う。これです。

 

保護者の教員に対する印象を決めるものの一つに、「自分の子どもから聞く言葉」があります。この影響力は大きい。「〇〇先生が好き」「〇〇先生の言うことは信頼できる」「〇〇先生のおかげで学校が楽しい」「〇〇先生の授業はわかる」と、日常的に自分の子どもから聞いていると、保護者の教員に対する印象は、当たり前ですが、よくなります。

 

特に、中学生にもなると感性が成熟してくるので、「若くて元気があるから好き」とか「優しくて怒らないから好き」とかいったことではなく、「センシティブな話題も配慮して適切に扱ってくれるから安心できる」とか「ここぞというときには厳しく注意してくれるから頑張れる」とか、教員側の意図をしっかり汲み取って教員を評価している生徒も増えてきます。そして、そういったことまで1から10までしっかり親に話している生徒も少なくありません。

 

自分の一挙手一投足がすべて生徒の口から保護者に伝えられると思って、丁寧な言動を心掛ける。授業中、休み時間、放課後、すべての時間において、これを心掛ける。たいへんなように思えますが、続けているうちにこうすることが当たり前になってきて、それによって生徒との関係も落ち着いた良いものになってくるのがわかります。

 

 

生徒の問題に関しては、保護者も教員も完璧な解決方法を見つけられないことの方が多いと思います。なので、その時々の最善解を模索しながらやっていく、というのが現実的です。その場合、保護者と教員が信頼関係を基にコミュニケーションを続けていくことが必要になります。

 

保護者との関係が円滑なときは、生徒との関係に割くことのできる時間と心の余裕が増えます。先生方のウェルビーイングを願いつつ、Happy teaching, my friends!!

Creative Commons License

古今東西、成績のつけ方。

今年の4月から新しい自治体で働いています。

新しい自治体には「新しい常識」があって、何をしていても新しいやり方に出会うものです。授業のやり方、学級運営のやり方、学校行事や生徒会活動のやり方から、部活動の位置づけ、教員間での意思決定の流れ、教員の働き方まで、多かれ少なかれほとんど全部が新しい。

 

その中で最近「これは新しい!」と思ったのが、成績のつけ方でした。

 

話を先に進める前に、まずいわゆる「成績」というのが何を指すかをはっきりさせておきます。通知表に載る「成績」には2種類あります。一つは「A・B・Cでつく観点別評価」、もう一つは「5・4・3・2・1でつく評定」です。生徒たちが「成績が上がった」とか「成績が下がった」というときの「成績」は「5・4・3・2・1でつく評定」の方を指します。

 

ちなみに、観点というのは

学校教育法第30条第2項が定める学校教育において重視すべき三要素(「知識・技能」「思考力・判断力・表現力等」「主体的に学習に取り組む態度」)

のことです。この「三要素」を「3観点」と呼びます。国語であれば、該当の生徒が国語の学習活動でこの「3観点」(①「知識・技能」、②「思考力・判断力・表現力等」、③「主体的に学習に取り組む態度」)をどれくらい伸ばせたかをA・B・Cの3段階で評価します。

www.mext.go.jp

 

さて。

前任の中学校(X校)と現任の中学校(Z校)はどちらも5・4・3・2・1の5段階で評定を決めるのですが、この決め方が違っています。どう違うかというと、「A・B・Cの観点別評価」と「5・4・3・2・1の評定」の関わり方が違います。

 

X校:

観点別評価

3観点それぞれ、到達度が

80%以上→A

80%未満~50%→B

50%未満→C

 

評定

3観点すべての到達度の平均が

90%以上→5

80%以上→4

80%未満~50%→3

50%未満~20%→2

20%未満→1

 

私にとってはこれは「強みで弱みをカバーできるタイプ」の評定の決め方です。結局大事なのは「3観点すべての到達度の平均」なので、3観点のいずれかに弱いものがあっても、他の2つが強ければそれで補えてしまいます。

可能性としては「観点別評価CBC:評定3」(①45% ②65% ③45%=平均51.7%)などといった場合がありえることになります。

 

他にも、この評定のつけ方だと、「観点別評価AAA:評定4」(①80% ②80% ③80%=平均80%)の生徒もいれば、「観点別評価AAA:評定5」(①90% ②90% ③90%=平均90%)の生徒もいる、ということになります。

そのため、生徒や保護者からすると、「Aなのはわかったけど、到達度はどうだったの?」という疑問が解消されないと、観点別評価のアルファベットが意味のある文字になりません。実際、X校に勤務していたときには面談などの機会に、「今の到達度はこれくらいです」ということを伝えていました。

 

では、Z校はどうでしょうか。

 

Z校:

観点別評価

3観点それぞれ、到達度が

90%前後以上→A

A未満~50%前後→B

B未満→C

 

評定

観点別評価が

Aが3つ(AAA)→5

Aが2つ(AAB、ABA、BAA)→4

Bが2つか3つ(ABB、BAB、BBA、BBB、BBC、BCB、CBB)→3

Cが2つ(BCC、CBC、CCB)→2

Cが3つ(CCC)→1

 

これは、観点別評価(A・B・C)がついた時点で、自動的に評定が決まるというやり方です。X校のように、観点②の強みで観点①③の弱みを補うなどといったことはできないので、「3観点すべてを伸ばしたいタイプ」の評定の決め方、と呼べるでしょうか。

 

それぞれにそれぞれの妥当性があるように見えるでしょうか? 実際、あるのだと思います。

 

ただ私の場合で言うと、評定を決めていて「あれ、この子4だと思ったのに3?」といったような「ん?」という評定が出てくる確率がやや高いのはZ校のつけ方です。2つの観点で到達度が約90%以上でないとAがつかず、それは高いハードルなので、仕方ないことなのですが。もちろん、観点によっては到達度を調整して「85%以上がA」などとすることもできます。ですが、Z校の評定のつけ方だと、「Aが増える=5と4が増える」ということなので、到達度を下方修正すると「このあたりの子たちはちょっと5や4ではないぞ…」という集団が一気に5や4になってしまって、成績の妥当性が下がります。そんなわけで、「生徒の習熟度」「生徒自身の認識」「通知表に載る成績(観点別・評定ともに)」がどこからみても妥当なように評価するのに、今は少し苦労しています。

 

そもそも、Z校の自治体の教育委員長は「到達度」という考え方自体を認めていない(AはあくまでAで、そこに90%も100%もない)ということもあり、文化の違いというか、もうとりあえず「新しい!」と思いながら来るものすべてを飲み込んでいるところです。

 

他の先生方の成績のつけ方や、それに関する思いなどもぜひうかがってみたいです。それでは、今日はこのあたりで。Happy teaching, my friends!!

Creative Commons License

小学校の先生に元気をもらった話

Photo by Jerry Wang on Unsplash

 

今年度(2023年度)から新しい自治体でまた公立中学校教員として勤務しています。首都圏から地方に移ったのでその違いなのか、この4か月間で参加した研修会はすべて小学校の先生方と一緒でした。他にも、職場の同僚に小学校から移ってきた先生方がいたり、また、小学校の英語専科の先生が私の授業を見学に来てくださることがあったりと、以前の自治体では感じたことのない、小学校と中学校の結びつきを感じています。

 

さて、小学校の先生方。とにかく優しい。オープン。前向き。教育学部卒の方が多いので想像に難くはないことですが、人間と関わろうとするエネルギーが大きい。小学校の先生と一緒だと、研修会のアイスブレイキングがふつうに楽しい。「何これ? これなら1時間でもやっていられる!」と思わせてくれます。そして、その後の話し合い活動なども、時間のゆるす限り情報交換や意見交換を続けることができて、しかも、愚痴大会で終わらない。建設的に話を進めようという意志を具体的な提案をもって表してくれる。

 

それくらいのパワーがなければとても務まらないのが小学校の教員という仕事なのだろうと思いますが、もう、存在に感謝・感動してしまいます。「あなたみたいな方が公立小学校で働いてくれるなんてどんなありがたい奇跡ですか…」と。本当に、子どもたちも保護者のみなさんも共にとんだ幸せ者ですよ。

 

一方で、若い先生たちとお話していると、先輩教員から必要なサポートをなかなか得られないまま、その日その日を自転車操業で乗り切っているのが現実なのも伝わってきます。自分自身を省みても、経験の浅い先生方を観察して必要なサポートするというのは、自分に余裕があるときしかできていません。それではいかんな!と本当に思わされました。

 

政府も対策を講じていますが、核心をついていないようにも感じられます。 

 

中学校の先生方にも奇跡のような方は多くいます。彼ら・彼女らが「離脱」まで追い込まれてしまうのを防げるように、私は現場で自分にできるサポートをしたいと決意を新たにしています。(だから、私にも時間と心に余裕をもてる働き方をさせて!!!)

 

全国の中堅教員の皆さん、お互い頑張りましょう。Happy teaching, my friends!!

Creative Commons License

オールイングリッシュの授業も「i+1」で

Photo by Colin Watts on Unsplash

 

こんにちは。

 

英語科の先生方、2022年度末現在、授業はすべて英語でなさっていますか? 私はALTと一緒のとき以外は、恥ずかしながら、ノーです。ですが、この間たまたま自分だけの授業時にオールイングリッシュで1時間通すことになり、たまたま生徒たちも乗ってきて、結果として生徒にも私にもすごく意義のある体験が得られるという幸運がありました。

 

それで、あらためてオールイングリッシュでの授業について考え直してみようと思い、本エントリーを書くに至っています。

 

英語で授業を行うことについては、「中学校学習指導要領(平成 29 年告示)解説 外国語編」の86ページ辺りに、このように書かれています。

エ  生徒が英語に触れる機会を充実するとともに,授業を実際のコミュニケーションの場面とするため,授業は英語で行うことを基本とする。その際,生徒の理解の程度に応じた英語を用いるようにすること。(下線:私)

https://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2019/03/18/1387018_010.pdf

 

オールイングリッシュの授業が成功するか否かは、教員が「生徒の理解の程度に応じた英語を用いる」ことができるかに大きくかかっています。このエントリーでは、このことについて私自身のための備忘録として大切な引用をいくつかまとめておこうと思います。これを読んでくださっている皆さまの何かのお役に立てましたら幸いです。

 

それでは、まずは、上記「エ」の説明の引用から。

 

 「生徒の理解の程度に応じた英語を用いるようにする」については,教師が生徒の理解度に注意を払うことなく,ただ英語を使って授業を行えばよいということではない。教師の英語使用に当たっては,挨拶や指示を英語で伝える教室英語を使用するだけでなく,説明や発問,課題の提示などを生徒の分かる英語で話し掛けることが必要である。また,発話の速度や明瞭さを調整するとともに,使う語句や文などをより平易なもので言い直したり,繰り返したり具体的な例を提示したりするなどの工夫をする必要がある。さらに,既習の言語材料を用いながら教科書の内容を説明したり生徒とのやり取りを行ったりすることで,教師の使用する英語は生徒にとって効果的なインプットとなる。「生徒の理解の程度に応じた英語を用いる」とは,このような教師の英語使用の工夫が求められることを示している。(下線:私)(リンクは上と同様)

 

ここで推測できるのは、ここでの「効果的なインプット」というのは、「一段階上の言語習得につながるインプット」だろうということです。いくら "I like soccer." が「生徒の理解の程度に応じた英語」なのだとしても、そればかり繰り返していては習熟度は上がらない。だから教員は、生徒が「ちょっとわからない英語」を「ちょっとした気づきがあるとわかるやり方で」発話の中に混ぜていけるといいのだと思います。

 

「教科書では見たことがあるけれど、実際に使われているのは聞いたことがない」とか、「練習で使ったことはあるけれど、単語を変えて使われているのは聞いたことがない」とか、「CDで聞いたことはあるけれど、自分に向かって言われるのは聞いたことがない」など、初めは「ええと…?」となる英語も、「発話の速度や明瞭さを調整するとともに,使う語句や文などをより平易なもので言い直したり,繰り返したり具体的な例を提示したりする」などして、生徒に向かって使っていく。

 

こう考えると、思い出されるのがクラッシェンのインプット仮説(「i+1の原則」)です。(そのまま「アイプラスワン」と読みます。)ということで、次はこれについて引用を2つ。

 

1つ目は「i+1の原則」とは何かの説明を、Phil Western氏の記事より。

“i+1” (Input Hypothesis) was originally a theory of learning developed by the linguist Stephen Krashen in the 1970s. It basically says that learning is most effective when you meet the learners’ current level and add one level of difficulty, like the next rung on a ladder. As a language teacher I always found this defined the whole process.

"i+1"(インプット仮説)とは、もともと1970年代に言語学者のスティーブン・クラッシェンが提唱した学習理論です。基本的には、学習が最も効果的になるのは、学習課題が学習者の現在のレベルを満たし、かつ、その難易度がはしごの次の段が上がるように1段階上がっているときである、というものです。(私訳)

 

2つ目は、クラッシェン本人の文から。

The best methods are therefore those that supply 'comprehensible input' in low anxiety situations, containing messages that students really want to hear. These methods do not force early production in the second language, but allow students to produce when they are 'ready', recognizing that improvement comes from supplying communicative and comprehensible input, and not from forcing and correcting production.

最善の指導方法は、「理解できるインプット」を不安感の少ない状況で学習者に与えることです。また、その「理解できるインプット」の中には生徒が本当に知りたがっているメッセージが入っている必要があります。この指導方法では、無理矢理早くから学習者に第二言語で発話させたりはせず、生徒が「準備ができた」ときに発話できるようにします。これは、言語習得の上達は、発話を強制したり修正したりすることではなく、自分で使ったり理解したりできるインプットを学習者に与えることで得られるとのだという認識に基づいています。(私訳)(どの文献からの引用かは明記されていませんが、文献一覧はリンク先の下にありす。)

 

自分用にまとめると次のようになります。

授業中に英語で話すときには、次の3つをねらいとする:

  1. 「生徒の理解の程度に応じた英語を用いる」こと。
  2. そしてその英語は「学習者の現在のレベルに対して1段階上のレベルである」こと。
  3. そしてそれによって「学習者が自分で使ったり理解したりできるインプットを更新・蓄積していける」こと。

 

授業中は気をつけることがありすぎてそれどころではなくなってしまうかもしれませんが、あらためて、自分が授業で使う英語をもっと「効果的なインプット」にしていけるよう勉強と工夫を重ねていきたいと思います。(これができるようになって、生徒と私との間の英語での意思疎通がもっとうまくいくようになったら、それだけでお互い絶対楽しい…!)

 

もちろん、一口に「オールイングリッシュの指導法」と言ってもいろいろあって、ターゲット言語に対する生徒の理解度をそれほど気にしすぎないタイプの指導法もあります。インターナショナルスクールに見られるイマージョン教育(ある言語「で」すべての生活や学習活動が行われ、それによってその言語の習得も進む)や、タスクベース・ラーニング(与えられた課題をすべてある言語で行い、課題に取り組む過程でその言語の習得も進む)がわかりやすい例です。

 

これらも指導法としてはとても効果的ですが、1クラス当たりの生徒数を考えると、日本の一般的な学校での実施は難しいように感じられます。そうなると、折衷案として、従来の英語の授業を、教員が工夫しながらオールイングリッシュにシフトしていくのが現実的なのでしょう。(機会さえあればイマージョンもやってみたいのはやまやま…)

 

それでは、今日はこの辺りで。Happy teaching, my friends!!

Creative Commons License

時間の余裕と心の余裕とteachable momentsと

Photo by Robert Collins on Unsplash

自分の英語の授業の見直しができる気配がない。もちろん、そこそこ考え抜いた結果として今の授業がある。

 

でも、もっと生徒が学べるように変えたい。(管理職は授業観察はしてもその後助言をくれはしないので、)やはり、同じ学校の先生の授業を観察したり、SNSでの先生方のつぶやきからヒントを得るのがいいか…。と思ったとき、先日ぜひ試したいと思ったこちらのアイディアを思い出しました。

 

 

「授業は40分で計画」

天才…!

 

中学校は1コマ50分なので、私の場合は「授業は45分で計画」ということになります。あーーー、考えただけで!絶対!楽しい!

 

私にとって、英語の授業の楽しさの半分は、授業を通して生徒一人ひとりへの人物理解を深められるところにあります。(残り半分は、誰かと一緒に言語を学べる楽しさ。)そもそも、問いかけや指示への反応、個人活動やグループ活動の様子、スピーチや英作文の内容等々を観察しては声をかけ、観察しては声をかけ、と繰り返しているだけでも、徐々に生徒たちの人柄がわかってきます。ただ、英語の授業には、教科の特性上、生徒の人物理解においてもっと先まで踏み込めるポテンシャルが秘められています。

 

英語という教科の特性、それは、扱っているのが「言語」であるということだと私は思っています。「英語という言語を目的に合わせて使えるようになる」という学習目標に向かってさえいれば、授業で行われる言語活動は何であってもいいはずです。つまり、「くだらんおしゃべり」も十分ありだと。「くだらんおしゃべり」の7割が日本語でなされていても、そこから英語の授業へと展開させることはいくらでもできます。「今のその日本語、英語にするには言葉が全然足りてないのわかる?」「今考えた日本語、3歳にもわかる簡単な日本語で言い換えてごらん」「今言いたかった『ネコ』、a cat、the cat、cats、the catsのうちのどれだと思う?」「ねえ、今話していた内容のその感じ、現在完了の感じじゃん」と。

 

これは、英語でいうところのteachable momentsです。(teachable moment:アルク英辞郎では「教えるのに良い機会」と和訳しています。)

 

A teachable moment is an unplanned opportunity that arises in the classroom where a teacher has a chance to offer insight to his or her students. A teachable moment is not something that you can plan for; rather, it is a fleeting opportunity that must be sensed and seized by the teacher. Often it will require a brief digression that temporarily sidetracks the original lesson plan so that the teacher can explain a concept that has captured the students' attention.

Taking the time to explore this tangent is almost always worthwhile. A teachable moment could ultimately evolve into a full-blown lesson plan or unit of instruction.

(出典:https://www.thoughtco.com/what-is-a-teachable-moment-2081657

 

Teachable momentというのは、授業中に偶然生じる、生徒の学びを促すのに適したチャンスのことです。Teachable momentは事前に計画できるものではありません。むしろ、それは瞬間的に訪れるチャンスで、教員はそのチャンスに気づき、それを捉えなければいけません。生徒が興味を持った事柄について教員が説明していく必要があるため、teachable momentは元々の授業計画から逸れた短い余談となることが多いです。

この余談に費やす時間は、ほぼ必ず意味のあるものになります。Teachable momentは突き詰めれば1つの授業や1つの単元の指導にまで発展する可能性があります。

(拙訳:私)

 

そして、この計画されていない学びの瞬間に、それまで見えていなかった生徒たちの表情が見えたり、それまで聞こえていなかった言葉が聞こえたりすることがあります。その瞬間、「教室で授業を受けている生徒たちと教員」という枠組みや肩書が消えて、ただ「共に学ぶ人」が1つの経験を共有しているだけになる。これが楽しい。teachable momentがバッチリはまってみんなで「おー!」となるのも楽しいし、teachable momentが思ったよりteachable momentにならずに、でも、勘のいい生徒たちが何かを感じ取って、あちこちで「? あー! でも、あれ?」となるのも楽しい。生徒たちがお互いの新しい顔を知っていく様子を見るのも楽しい。そして、教員としても生徒への新しい理解を得ることができるのが楽しい。昨日よりも一段とキャラの立った人物たちが目の前にいる楽しさ。

 

授業の中にある時間的な余裕は、教員にとっての気持ちの余裕になります。気持ちに余裕があればteachable momentに気づくことができ、時間に余裕があればそのteachable momentを捕まえ、「いい余談」に展開させることができます。

 

「授業は45分で計画」。楽しみにやってみます。Happy teaching, my friends!!

Creative Commons License

まず、聞く。そして、さらに、ただ聞く。

特別お題「2023年にやりたいこと

Photo by Hayes Potter on Unsplash

地元紙が「卯年生まれ新年の思い」という特集を組んでいて、その中に膳場貴子さんのこんな言葉がありました。

 

「24歳の頃は何者かにならないといけないと、考えるのは自分のことばかり。36歳でもまだそうだった。」

主旨としては、

「“責任世代”となったことで、若い世代がより生きやすい社会となるよう、下の世代への責任を考えるようになりました」「大人になるって、こういうことかという感覚」

と着地するのですが、私にとっては前半部分の方に響くものがありました。「何者か」にならねばという思いは、客観的に「何者か」になった後にもなくなりはしないのか…業…と。

 

それではと先日40歳になった我が身をふり返ると、膳場さんのいう「自分のことばかり」と「大人」とでいえば、まだ「自分のことばかり」寄りのところにいます。そして、正直なところ、そのことをそれほど問題と思っていない節もあります(うふふ)。

 

ただ、40代になり、年も明け、はてなブログのお題(「2023年にやりたいこと」)もあり、という諸々をきっかけに、ここ数年間に浮かんだり消えたりしていた思いと新年の抱負とを併せて整理してみたところ、少なくとも現時点では、ここに落ちつきました。ダダン。「自分のことばかり」と「大人」とがお互いに歩み寄るように過ごしたい。

 

いわゆるwin-winとか利他とかいうことと同じなのかもしれませんが、いずれにせよ、人と関わるときに「自分のことばかり」と「大人」とが重なり合うような関わり方をしてみたい。理想です。

 

では、それをどう実践するか。私がやってみたいのは「聞く」ことです。聞く。とにかく、まず、聞く。そして、さらに、ただ聞く。

 

私は「自分のことばかり」になっているときは、周りの声が聞こえていません。形として相手が話している状態になっていても、頭の中は「自分のことばかり」になっているので、相手の話はほとんど私に届いていません。当然、そのやりとりは何になるわけでもなく、何だったら、相手との人間関係を損なってすらいるはず。これを変えたい。

 

まず、聞く。そして、さらに、ただ聞く。その後に何を話そうとか、何を提案しようとか、何をしようとか、考えない。そうすることで少しの間でも「自分のことばかり」モードをオフにする。これ、できているときもあって、そのときにそこから得られる気づきやそこに生まれる相手とのつながりは、プライスレス(語彙)なことが多いです。だから、これをもっと日常的にやっていきたい。

 

ノルマを作るものでもない気がしますが、まずは1日1回から始めてみます。

 

今回はこのブログとしてはoff-topicでした。Happy listening, my friends!!

 

追記:

UBCのプログラムに、「マインドフルネスを教育に」的な授業があって、その中にMindful listeningというのがありました。アクティビティとしては、こんなふうです。

①参加者は二重の輪になって、内側の人は外側、外側の人は内側を向く。

➁与えられたお題について片方の人が話し、もう一方の人は聞く。聞く人は、相槌を打ったり応えたりしてはいけない。

 

相手の発言に対してリアクションを取る必要がない状況だと、無心で相手に注意を向けることができるので、その瞬間へのコミット度(語彙)のレベルが上がるのがわかりました。すごくいいアクティビティでした。

Creative Commons License