先生のためのアイディア帳

効果的な指導法やエトセトラについて

「教えること」はアート?サイエンス?

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Photo by Louis Reed on Unsplash

こんにちは。

 

今日は、前回のエントリーの内容に続く形で、「教えること」に対して各先生が無意識に抱いている(であろう)スタンスについて書きます。

 

簡単に言うと、「教育は芸術だ!」と思っているか「教育は科学です」と思っているかどうかです。かえって意味がわかりませんね。言い換えると、教育に携わっているとき、「自分は計測不可能なで、そして予測不可能なものを扱っている」と思っているか「自分は計測可能なもの、予測可能なものを扱っている」と思っているかどうかです。

 

ここでどちらのスタンスを取るかが、各先生の日々の指導の在り方を決定します。ただし、このスタンスは、必ずしも各先生が個人的に選び取っているわけではなく、学校長や教科主任が取っているスタンスに影響を受けているでしょうし、もっと言えば、学校長や教科主任も国や地方自治体のスタンスに影響を受けているでしょうし、さらには国や地方自治体は時代のスタンス(要は流行り)に影響を受けているはずです。

 

余談ですが、私立学校は、学校を超えるものからの影響をどれくらい自校の教育に反映させるかを自分たちで決められるという点で、公立学校に比べて、独自のスタンスを打ち出しやすくなりますね。

 

戻りまして。結論から言うと、現在は圧倒的に「教育は計測可能なもの、予測可能なものを扱っている」というスタンスが優勢になっていると私は見ています。つまり、「教育は科学です」のスタンスです。

 

ここでちょっと注意したいのは、「教育は科学です」のスタンスはSTEM教育に力を入れているとかそういうことを別に意味しないということです。そうではなくて、たとえ芸術教育や情操教育にものすごく力を注いでいるとしても、その根底に「自分がしている教育は計測可能なもの、予測可能なものを扱っている」という信念があれば、それは「教育は科学です」のスタンスを取っていることになります。

 

実は、2つのスタンスに関するこの理解の仕方は私には目から鱗で、というのも、私自身が一教員として情操教育やソーシャル・エモーショナル・ラーニングと言われるものを大きく買っていて、そういう自分の中に「教育は科学です」的な視点があると思ったことがまるでなかったからです。むしろ「計り知れないこの人間の子どもという生き物と日々学んでいる」くらいの気持ちでいたので、どちらかといえば自分は「教育は芸術だ!」派だと思っていました。でも今あらためて振り返ると、よりよい情操教育がなされるように組まれたカリキュラムや課外活動を通じて比較的体系的に生徒に一定の学習経験を与えていたことが思い出されて、「あれ、私もしかして『教育は科学です』派の人?」と初めて思うに至り、自分でもびっくりした、というわけです。

 

前回のエントリーとつなげると、これはたぶん1960年代のアメリカの教育の流行りに大きな影響を受けているのではないかと思います。専門家の意見に頼りながら、根拠に基づいて最短距離で成功を成し遂げることを目指すというアレです。この教育観および教育の在り方に対する反発は常に出続けていますが、それでも今現在の教育のそこここにそれらを見つけることができます。

 

たとえば、SMART教育。私がいるカナダのBC州では交通標語のようにしょっちゅう出てきますが、どうでしょう、企業の会議で出てきそうな単語がずらりと並んでいます。

Specific(具体的)

Measurable(計測可能)

Attainable, Achievable(達成可能)

Relevant(関連性がある)

Timely(タイミングがよい) 

BC州では幼~高のどんな教育活動もSMARTであるべきだという考え方がほとんど当たり前になっているように見えます。これはどう考えても「教育は科学です」のスタンスに基づいていますね。

 

このスタンスに基づくと、私がこれまでに書いてきたような「具体的な目標設定大事!」「ルーブリックいいよ!」「バックワード・デザインいいよ!」みたいな指導を支持することに結果的につながります。

 

そんなわけで、私自身、自分でも驚きながら、けっこうゴリゴリの「教育は科学です」のスタンスを取って今はブログを書いていますが、客観的に考えると、これも一種のマイブームみたいなものかもしれません。

 

というのは、私自身日本の教育の非科学的な面が生み出す問題に大いに苦しんでいたので(「これ何でやってるんだろ…」と思わざるを得ない活動をやらなければいけないとか)、カナダに来て、今はそこに対する批判精神が大いに花開いている(笑)最中なのだろうと自分でも思うからです。

 

それでも、SMART教育や「教育は科学です」のスタンスが教育活動の改善に貢献できるのは間違いないので、これからしばらくは日本の教育改革はそっち方向を目指すのではと思います。北米ほどではなくても、今後日本も社会自体が「費用対効果」だとか「効率性」だとかもっともっと優先するようになってくれば、なおさら、「科学的に教育する」ことに対する支持は高まるでしょう。

 

ただ、ここで問題になるのが、「そうは言っても、教育って、計測できないもの、予測できないものも扱ってるじゃん」という事実があることです。

 

計測可能性に関しては、たとえば、テストがわかりやすい例です。テストは生徒の成長を測るための最もメジャーなツールです。でも実際には「テストが測れるのは生徒の成長の『一部』」だというのは、多くの先生に頷いていただけるところかと思います。

 

不十分な計測は、生徒の学びを誤った形で表し、それによって生徒の学力向上を妨げたり学習意欲を損なったりします。生徒の成長をよりよい形で表せるよう多くの改善が今後なされたとしても、やはり測れるものと測れないもの、数値化できるものと数値化できないものというのはあり、「完璧な計測」は不可能だと私は思っています。

 

予測可能性に関しては、たとえば、バックワード・デザインで授業を計画する場合、その授業は「Aをすれば生徒はBのように反応する」という予測に基づいて綿密に計画されていると言えます。英語でいうと、「一般動詞に集中して反復練習すれば、生徒は一般動詞とbe動詞を混同しなくなる」のような。ここには「シンプルにすれば、生徒の理解が高まる」とか「反復練習をすれば、生徒は自然に学習事項を身に着ける」とかいった予測も含まれています。

 

こういう予測は、先生自身の経験や先輩の先生の経験や先行研究によって裏付けられていることも多く、実際に精度も高かったりして、予測すること自体は問題ではありません。でも、前回のエントリーで紹介した本の中でも多くの教育研究者が問題にしているのは、「予測に基づいて指導することによって、生徒の『予測不可能な成長』を妨げている」という部分です。生徒が予測した以外の反応を示したとき、「教育は科学です」派の指導はその反応を誤差として扱って、生徒を本来のルートに戻そうとするしかありません。これが「教育は芸術だ!」派だったら、きっとその誤差を喜んで受け止め、それを活かす方向で指導を展開させていくと思います。

 

これを読んで下さっている先生、「教育は芸術だ!」派ですか?それとも「教育は科学です」派ですか? それぞれの先生が違った割合で折衷派だというのが現実だと思いますが、この問いを頭に置いてこれまでの授業や指導を振り返ることで、今後に活かせるような発見をしていただけたらうれしいです。

 

次回もまた指導について書く予定です。それではまたその時まで。

 

Happy teaching, my friends!!

 

参考:

Flinders, D. J. & Thornton, S. J. (2004). The Curriculum Studies Reader (2nd ed.). New York, NY: Routledge Falmer.

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