先生のためのアイディア帳

効果的な指導法やエトセトラについて

自ら考える力? 21世紀型スキル?「考える」ってどうやるの?

f:id:ednotes:20181205081903j:plain

Photo by Patrick Perkins on Unsplash

こんにちは。

 

タイトルの通り、今回は「考える」ことについて書いてみます。

 

振り返ると、「考えなさい」と言われる状況も言う状況もこれまでに何度もあったのですが、これ、かなり高い割合でバズワードにしかなっていなかったんじゃないかと思います。言われている立場としては「そう言われても…」という思いが、言う立場としては「言われていること、わかるでしょ」という思いが多かれ少なかれあって、このズレが結局「考えられない」という結果を招いてしまうという。こういう経験、ありませんか?

 

いつの時代も教育に関わる人たちは「考える」ということを言い続けてきたと思うのですが、現代の教育界でも、「21世紀型教育」とか「21世紀型学習」とかいう用語と一緒に、「考える」という言葉がこれでもかというくらい飛び交っています。正確には、以下の3つが頻出「考える」です。

 

Critical thinking(批判的思考)

Creative thinking(創造的思考)

Collaborative thinking(協働的思考)

 

これら3つの思考力を伸ばす。これ、どうされますか? 私が思うのは、生徒が「考えることについて考える」活動が必要だろうということです。explicit instructionかimplicit insructionかでいうと、explicit instructionです。なぜか。それは私が、ここで話題になっているタイプの思考力というのは自動的に伸びていくものではないと思っているからです。年齢を経て知識と経験が増えるにつれて思考力も自動的に伸びそうですが、うーん…ないかなあ…。生徒を見ていると、あたかも年齢とともに思考力が上がっていくように見える例が非常に多くありますが、それは彼らが「考えることについて考える」経験を積んだ結果だと私は解釈しています。

 

「考えることについて考える」というのは、つまり、「どうしたらよりよく考えられるかを考える」ということです(私の勝手な定義)。要は「思考法」ですね。視点を変えながら挙げていくと際限なく出てきそうですが、私が今思いつくのは以下のような感じです。

  • ある(与えられた)話題について基礎知識を得る
  • その話題の問題点(考える余地のある点)を明確に把握する
  • その問題点についてすでに存在する解決策や議論を確認する
  • すでに存在する解決策や議論の背景になっている状況を確認する
  • 自分と話題との関連性を見つける
  • その問題点について思いつくアイディアを挙げる(ブレインストーミング:書く、絵や表にする、独り言を言う、他人に話す、などなど)
  • それらのアイディアを比較したり合体させたりしながら、よりよいアイディアへと改善していく
  • アイディアの変遷を記録する
  • 自分のアイディアが本題から逸れていないか確認する
  • 自分の考え方の癖を自覚する
  • 他人の立場に自分を置く
  • 他人の考えを聞く
  • 時間を置く(頭を冷やす)
  • 考えがまとまったら、なぜそう考えるのか理由も挙げる
  • 自分の考え(方)に盲点がないかを確認する

偶然にも、批判的思考、創造的思考、協働的思考の3つすべてをカバーしていて、自分ではなかなかいいリストができたなとニコニコしているのですが、いかがでしょう?(「他にもこんなのあるよ」というのがありましたら、ぜひコメントでお知らせください)

 

たとえば、クラブで役職についている生徒が部員の参加率が低くて運営に困っている場合など、彼らは実に上手に上記のような方法を使って問題を解決しているように思います。他にも、小論文やプロジェクトなどで質の高い結果物を出してくる生徒も上記のような方法を駆使しているように見えます。

 

さて。仮に「生徒がこれらの思考法を使って自分で考えられるようになる」というのを指導目標にしたとします。この目標をexplicit instructionを用いて達成しようとする場合、最も手っ取り早いやり方はこのリスト(じゃなくてももちろんいいです)を生徒にあげて、様々な話題を使いながら、ひたすら練習➡フィードバック➡練習の繰り返しを行うことです。もちろん、いろいろな活動を通じて、生徒に彼ら自身のリストをゼロから作らせることもできますし、このリストをあげて生徒にそれを改善させるという方法もあります。でも、大事な部分は「考えることについて考えながら考える」練習をたくさんすることだと思います。「思考法」についてよく知っていても、実際に考えなければ能力としては身に着きませんので。

 

「考える」という行為は目に見えず、それ自体を計測することはできません。その上、「考える」ことは非常に個人的な、その人独自のやり方でなされるべきことです。おそらくこれらのうちどちらか、もしくは両方が多少なりとも理由になって、学校で思考法を(あまり)教えないのだろうと私は予想しています。思考法は思考内容に対して大きな影響力を持ちますので。思考法を教えるということはある種の価値観を教えることにつながります。たとえば上記のリストでは「情報の正確性」「意見の客観性」「他者への理解」といったことをプラスに評価する価値観が直接的、間接的に生徒に伝わることになります。

 

ただ、北米などと同様、日本は政府が「21世紀型スキルを伸ばしたい!」と(定義も曖昧なままに)言っており、これはそこに含まれる価値観の肯定を前提にしているので、「価値観を押し付けないためにも思考法は教えない」というのは、うーん…ないかなあ…(2回目)。文科省のウェブサイトではそこここで「自ら考える力」という言葉が出ていますし。

 

ちなみに、この「自ら」というのはきっと「自発的な」という意味で、きっと「積極的に物事と自分との間につながりを見つけ、そこにある問題点に気づき」と言い換えられるのだと思います。が、そのためには、まずは生徒が思考法を学んでそれを使う練習をすることが不可欠ではないかと私は思っています。

 

いかがでしょうか。次回「考える」ことを生徒に促す際に使っていただけるアイディアが何かあったらいいのですが。

 

それではまた。

 

Happy teaching, my friends!

Creative Commons License

2つの指導法をバランスよく使う:explicit instructionとimplicit instruction

f:id:ednotes:20181203054021j:plain

Photo by Lonely Planet on Unsplash

こんにちは。

 

ここまで「評価」についてずっとお話してきましたが、今日は視点を変えて、もう少し俯瞰的に指導法について書きたいと思います。

 

指導法というのは、星の数ほどとは言いませんが、細かく見ていくとたくさんあります。ですが、以下の2つのカテゴリーを用いるとどんな指導法でもそのどちらかに分類できます(たぶん)。さあ、今日の用語です。

 

explicit instruction(もしくはdirect instruction)

implicit instruction(もしくはindirect instruction)

 

文字通り、explicit instructionは「明示的」な指導法、implicit instructionは「暗示的な」指導法です。例を挙げてみましょう。

 

事例:リスニング力を鍛える

 

explicit instructionの場合:

  1. 「これからするのはリスニング力を鍛えるためのトレーニングですよ!」と活動の目的を示す
  2. なんなら「消える音に注目!」などと詳細に目標も示す
  3. ディクテーションやシャドーイングや大意把握など、具体的な活動を示す
  4. 先生は生徒が目標とするリスニングのレベルに到達しているかを評価し、フィードバックを与える

 

implicit instructionの場合:

  1. 「今日は英語の歌を歌いましょう!」
  2. 生徒がうまく歌えない箇所について発音を詳細に説明したり、集中的に繰り返したりする
  3. 生徒が歌えるようになるまで繰り返す

 

生徒目線で考えると、explicit instructionでは生徒は「あー、オレ今リスニングやってるわー」と明らかに認識できています。一方、inplicit instructionだと生徒は「あー、オレ歌ってるわー」ということはわかっても活動のねらいについては明らかには認識していません。

 

なるほど。ではこれ、「じゃあexplicit instructionとimplicit instructionのどちらがいいか」という話になりますかね? うーん…なりませんね。先生がどんな力を生徒につけたいのか次第で、2つの指導法を使い分けたりミックスさせたりすることが必要なだけです。

 

たとえば同じ英語学習でも、センター試験対策だったら、まず間違いなくexplicit instructionがメインになります。なぜか。学習活動の目標が「センター試験で8割正解すること」などと非常に具体的で、かつ、試験までの時間が限られているからです。限られた時間で結果を出さなければいけないとき、explicit instructionが好まれます。なぜか。explicit instructionは生徒を現在立っているところから目標地点まで、できるだけ回り道せずできるだけ早く到達させることを目的とした指導法だからです。

 

これがもし小学校英語で(すみません、小学校英語のこと全然わからないくせに文科省これだけ読んで書いています)、「児童を英語に親しませる」というのが目標だったら、implicit instructionがメインになる方がいいような気がします。というのは、explicit instructionだとどうしても「私は…今…英語を…勉強している…!」ということが自覚されるので、英語自体をじかに経験するというよりは「英語学習を経験する」ことになりがちだからです。

 

強調しておくと、大事なのはあくまでexplicit instructionとimplicit instructionのバランスです。そして、そのバランスは先生がよくよく考えた上で決められるべきだということです。「どんな経験が生徒の学びを向上させるか」、これを絶えず自分に問い続けることが必要になります。生徒は常に変わっていきますので。

 

最後に、前回のエントリーまでずっと話してきた「評価」の話題に今回のexplicit instructionとimplicit instructionの話題がどう関係するか、簡単に。

 

私がこれまで激推ししてきた「具体的な評価基準」ですが、これをexplicit instructionと組み合わせると、工場の生産ラインみたいな授業になる可能性が極めて高いです。「今日の目標は15時までにこれを100箱出荷! そのためにこれとこれとこれをして、これとこれが(以下略」という。これの問題は、生産性は高くても創造性の余地がゼロなところです。この授業にはもちろんメリットがありますが、すべての授業がこうなるべきかと聞かれれば私はNoと答えます。

 

では、「具体的な評価基準」をimplicit instructionと組み合わせることができるでしょうか? もちろんできます。上の例でいうと、「児童を英語に親しませる」という活動目標をより具体化して、しかし指導法としてはimplicit instructionをとる、というようなことになります。活動目標を具体化するというのは、つまり、「何をもって『児童が英語と親しんだ』と評価するのか」という基準を明確にするということです。相当いろいろ基準が考えられそうですが、たとえば、授業への出席とか多読の本の冊数とかでしょうか。ただし、先生は「めざせ、無遅刻無欠席!」とか「夏休み前までに多読50冊!」などといった直接的な指示はせず、あくまで、生徒の参加や活動を促す指導を行うわけです。

 

explicit instructionとimplicit instruction、いかがでしたか? この2つのバランスを意識すると、今日この後の授業がちょっと変わる気がしませんか?

 

次回もまた何か続きになることを書きたいと思います。それではまたその時まで。

 

Happy teaching, my friends!

Creative Commons License

オースティンの蝶々:「生徒の学びを促進する評価」のすばらしい例

f:id:ednotes:20181203054722j:plain

Photo by Alan Emery on Unsplash

こんにちは。

 

今日は理想的な評価基準と、そこからつながる理想的な評価活動についてです。ここまで「formative assessment大事」「具体的な評価基準大事」ということを4回のエントリーに渡ってしつこくお話してきました。今回はその「大事さ」がこれでもかというほどうまく表されている学習活動の動画をご紹介します。

 

先に言っておくと、この動画で一番の焦点になっている評価は「生徒・児童➡生徒・児童」という評価で、「先生➡生徒・児童」という評価ではありません。が、これはもちろん「先生➡生徒・児童」という評価にもそのまま応用できます。(先生を「教員研修の講師」、児童を「研修に参加している先生」と見立てみて下さい。)何より、この動画は評価の必要性の根本をドンと突いているので、とにかく見ていただければと思います。

 

ちなみに、カナダ私が会った先生はこの活動をそのまま「Austin's butterfly」と呼んでいるようですが、今Google検索した感じだと、日本語にはまだ訳されていないようですね。タイトルのとおり「オースティンの蝶々」がいいかなと思うのですが、いかがでしょう?(謎の質問)

 

日本語字幕がないのが残念ですが、何が起こっているか流れは十分につかめるかと思います。

 

critique and feedback - the story of austin's butterfly - Ron Berger

www.youtube.com

……。言葉を失いますね、感動して。これ義務教育の教材にしたらいいと思いませんか? 私は全力で推します。

 

さて、動画の中の事柄はこんなふうに理解できます。

  • 蝶々の写真:評価基準
  • 先生の問いかけ:プロンプト(児童が評価について考え始めるきっかけ)
  • 児童の無言の状態:評価基準に基づいたformative assessment
  • 児童の発言:評価基準に基づいたformative assessmentのフィードバック

さらに言うと、先生の問いかけは、児童の発言に対するformative feedbackにもなっているのですが、そこまで言うと無駄に複雑になる気もするので省略します。

 

先生のプロンプトの1つ目の重要な個所は2:00のところですね。こう言っています。

And they decided to split their advice into two kinds. First, just the shape of the wings. And then when the shape was right, they'd give him advice about the pattern inside the wings .

(細かい聞き取り間違っていたらご指摘ください!)

 

「形」に関する評価と「柄」に関する評価は分けましょう。「形」に関する評価を先にして、その後「柄」に関する評価に移りましょう。と、評価の際に注目すべき要素を整理しています。蝶々の写真という目に見える評価基準があると、それで十分なように思いがちです。でも、それに照らし合わせながら別の作品を評価する(この場合、そこに近づけていく)って、実は簡単ではありません。(絵がド下手な人間としてこれは心底思います。)注目すべき複数の要素がごちゃまぜになっているままだと、どこはOKでどこは要訂正なのかを見落としたり誤って認識したりすることにつながります。

 

先生のプロンプトの2つ目の重要な個所は2:27のところです。こう言っています。

Show me! Come up here.

Longer where? Draw where you would draw it.

ここでは、児童がより具体的に評価できるよう、言葉だけでなく実際に動作で「ここがこう」と示す機会を与えています。さらに「どこを長くするの?」とも問いかけ、そして彼が説明を終えたら、

That's very specific.

これで、「具体的であること」が「いいこと」なのだと念を押しています。最後の振り返りでも先生が誘導しつつ児童から「具体的」というキーワードを引き出しています。

 

次は、4:30辺りからのところです。児童たちの評価とフィードバックがどうオースティンの絵の改善につながっているか、「ほら、ここ」「ほらここも」と、確認しています。これは、評価者である児童に対するポジティブな評価で、児童に「いい評価とは何か」「いい評価者とは何か」というメッセージを伝えています。Geez, this is so powerful...

 

最後は、5:13辺りからです。こう言っています。

Let me show you where he started, just to give you a quick reminder.

振り返りですね。デューイ(John Dewey)を引用するとまさに「経験から学ぶのではなく、経験について振り返って考えることから学ぶ(“We do not learn from experience... we learn from reflecting on experience.”)」という、これの実践です。

 

それから、これは直接的には誰の発言にも出ていないのですが、評価が「具体的」であるということは、その評価を受けた相手が「それを何らかの行動に移せる」ということを意味するのだというのは、ぜひ強調しておきたい点です。(英語だとmanegeableとかdoableとかいう形容詞で表される状態です。)この動画の場合、友達から受けた評価が具体的だったので、それを受けたオースティンは「じゃあここはこうか」「で、ここはこうか」とどんどん絵を改善できたのです。

 

この動画、どこかで使いたいと思いませんか? 評価についての理解を深めるために、先生に対しても生徒に対しても使えますよね。私が今パッと思いつく使い方は以下の2つです。

  1. この動画を授業や研修の中で見せる
  2. この動画を元に、自分の指導内容を当てはめて別の例を考え、それを授業や研修で使う

で、そこからロールプレイやディスカッションやルーブリックの作成などに発展させればいいのかなと。

 

次回はまた何か続きになることを書きたいと思います。それではまたその時まで。

 

Happy teaching, my friends!

Creative Commons License

なぜ先生はぐだぐだな評価基準を変えられないのか

f:id:ednotes:20190219165812j:plain

Photo by rawpixel on Unsplash

こんにちは。

 

前回は「成功していないformative assessment」は「評価基準がぐだぐだである」ということを書きました。「評価基準がぐだぐだ」な状態というのは、「評価基準が生徒の学びの向上に役立っていない」状態であると定義しておきます。

 

前回は英語の発音指導におけるダメな評価基準の例として「ネイティブっぽく聞こえる」というのを挙げましたが、今回の本題に入る前に、ここでさらに別の例を挙げて、具体的な評価基準がどうformative assessmentとその後の指導につながるかを見てみます。

 

事例:単語の小テスト

 

評価基準が生徒の学びの向上に役立つ場合:

A先生は生徒が単語をおぼえる際の評価基準として「単語の発音と文字表記を正しく一致させておぼえていること」を重視している。なので小テストは、先生が単語を発音して、生徒は各単語を選択肢の中から選び番号で答えるという形式で行っている。小テストの結果が生徒の理解を表しているので、ミスがあった部分を先生は次の指導でさっそく補う。たとえば、arのerと発音のちがいを、口の形のちがいを使って説明し、練習させるなど。

 

評価基準がぐだぐだな場合:

A先生は生徒が単語をおぼえる際の評価基準として「小テストで8割以上をとること」を重視している。小テストは教科書付属のものを利用している。8割に達しなかった生徒には再試を行い、それでも8割に達しない場合には宿題として単語を書かせて提出させている。

 

書いていて胸が痛むのですが、自分の経験を振り返ると、私はこの後者の状態から完全に抜け出せたことがないように感じます。なぜだったのでしょう。私の場合に限られるかもしれませんが、理由を考えてみます。これが今回の本題です。

 

「なぜ先生はぐだぐだな評価基準を変えられないのか」

 

① 評価に関心がないので、与えられた評価基準を採用している

② 評価に関心があり、改善案もあるが、裁量権を持っていないので、与えられた評価基準を採用している

③ 評価に関心があり、裁量権も持っているが、改善案がないので、 与えられた評価基準を採用している

 

①、②、③それぞれ等しくあるあるな理由かと思います。

 

①の「評価に関心がない」はなんだかやる気のない先生みたいに見えますが、そうではないと思うんですよね。特に、formative assessmentという考え方にあまり馴染みがない先生であれば、「評価=結果に関するもの」「指導=プロセスに関するもの」と切り離してとらえ、「評価はあくまで生徒の学習活動の結果に対するものであって、それは生徒次第なので、自分は指導に力を入れよう」という方針を取っていても不思議ではありません。

 

②は学校もしくは教科の問題ですね。既存のシステムを変えるのは大変です。ただ幸い、評価に関する裁量権が先生個々人に全然与えられていない場合というのはかなり珍しいと思います。どんな学校もどんな教科も生徒の学びを向上させたいに決まっていますので(、と信じたい)。

 

③は先生が教育学についてあまり知識がない場合の理由で、これも日本の教員免許取得の流れを考慮すると残念ながら珍しくないと言えます。多くの先生が「教科」のエキスパートであって、「教育」のエキスパートではありませんから。当然、教える経験を積む中で先生は教授法を磨いていきますし、その過程で研修に参加したり研究論文を読みながら自分の教授法をさらにアップデートしていく先生もたくさんいます。が、先生の過酷な労働状況を思うと、そういう自己研鑽の機会は非常に手に入りづらいだろうと想像できます。ですが。(何度も流れをひっくり返してすみません。)教育について学ぶことって、実はそんなに時間や手間のかかることじゃないかもしれないんです、2018年において。カナダに来てからprofessional learning communitiesとかprofessional/personal learning networksについてさんざん耳にし、自分も参加してみている今、「やったらできるよ」という感想を私は抱いています。このprofessional developmentの話題についても、いつか書きます。

 

というわけで、今回は「なぜ先生はぐだぐだな評価基準を変えられないのか」について考えてみました。「評価基準ぐだぐだ問題」の根っこを探ると、次に何をしようかアイエディアが湧いてきませんか?

 

次回は、理想的な評価基準とは一体どんなものなのか、あーでもないこーでもないと考えてみる予定です。

 

それではまたその時まで。

 

Happy teaching, my friends!

Creative Commons License

具体的な評価基準を設定して学びの質を上げる

f:id:ednotes:20181203060219j:plain

Photo by Jannes Glas on Unsplash

こんにちは。

 

前々回および前回に続けて、評価の話題です。ここまで、評価というのは生徒に「君は2ね」とレッテルを張ることを必ずしも意味せず、生徒のこれから先の学びを形成していく役割も果たせるのだということをお話しました。

 

この後者のタイプの評価がformative assessment(形成的評価)で、これは生徒の学びのプロセスを評価する評価です。別の言い方をすると、生徒の学習活動をプロセスとしてとらえて評価する評価です。わかりにくいですね。事例を挙げて説明してみます。

 

事例:中1英語で生徒が正しい発音ができない

 

生徒の学習活動をプロセスとしてとらえる場合の評価:

①生徒の学習活動を観察する。モデルとなる音声をどう聞き取っているか、口の開け方はどうか、人前で英語を発音することへの抵抗感はないか、など。②自分(先生)の指導を振り返る。生徒が理解できるよう具体的な説明をしたか、練習する機会を与えたか、生徒が間違っていた時に生徒が理解できるよう具体的なアドバイスをしたか、生徒の発音への抵抗感を下げるための工夫をしたか、など。

 

生徒の学習活動を結果としてとらえる場合の評価:

「この生徒は正しい発音ができない」ピリオド。

 

言うまでもなく、生徒の学びの質を上げたければ生徒の学習活動をプロセスとしてとらえてformative assessmentを行うことが不可欠なのだとわかります。

 

で、前置きが長くなりましたが、ここからがこのエントリーの本題です。

 

「formative assessmentをしていても生徒の学習活動が改善されない」のはなぜか、上の事例でいうと「formative assessmentをしていても生徒の発音がよくならない」のはなぜか。これです。言い換えると、「成功していないformative assessment」の特徴についてです。

 

さっそく言ってしまいます。「評価基準がぐだぐだである」、これに尽きます。

 

評価基準。何でしょうね。評価基準とは何かのだいたいのイメージを描くために、まずは、評価基準がぐだぐだではない場合を考えてみます。上の事例で行きましょう。「正しい発音」の評価基準であれば、たとえば最初に「他の単語と混同されることなく、聞き手に伝わる発音」という大枠を設定します。で次に、これを分解して「『母音の発音』『子音の発音』『つながる部分や消える部分の発音』『音の長短』『音の高低』がそれぞれ聞き手が理解できる程度に正しく発音されている」というより具体的な評価基準を設けます。こうすると自動的に、「正しくない発音」というのは「そんな英語はないよ」という状態か「それだと他の意味に聞こえるよ」という状態のいずれかであるということも定義されます。

 

生徒の学習活動を観察する際および先生自身の指導方法を振り返る際には、この大枠の評価基準と具体的な評価基準を念頭に置きます。すると、生徒サイドと自分サイドで何がよくて何が不足しているかをかなり的確に評価することができます。この評価がこれから先の指導につながります。

 

ではこれに対して、ぐだぐだな評価基準というのはどんなものでしょうか。一言でいうと「具体性がない」評価基準です。たとえば「ネイティブっぽく聞こえる」とか。これだと、教員が「ネイティブっぽく聞こえない」と思った発音は正しくないと評価され、そのあとの指導はたぶん「もっとネイティブっぽく発音してみようか」みたいなことになるかと思います。

 

formative assessmentをしようとすると、先生の仕事はさらに忙しくなります。生徒の学習活動の結果ではなくてプロセスに対する評価というのは、一回限りではなくて常に継続的に行われなければならないので。ですが、これ、ほとんどの先生がほとんど無意識で日々されていることだと思います。「この生徒は記述問題も良く取り組んでいるけれど、回答が的を射ていないことが多いな」とか「この生徒は練習をよくしているのにタイムが縮まらないな」のように、生徒の学習活動について「うーむ」とか「あれ?」とか思う時、先生は何らかの評価基準に基づいて生徒の学習活動を評価しているわけです。その評価基準が具体的であればあるほど、評価も具体的になって、フィードバックも具体的になって、生徒の学習活動の迅速な改善へとつながっていきます。評価基準を具体的に決めるためには少し時間がかかりますが、一度ここを固めてしまえばあとの指導が、少なくてもそうでない場合よりは、スムーズになります。

 

具体的な評価基準の重要性を力説してみましたが、どうでしょう? これを読んでくださっている先生、この後にする授業の学習目標は何ですか? その目標に生徒が到達したかしていないか、どう評価しますか? その評価の評価基準は何ですか? この質問に一つずつ答えていくと、授業中に何に注意しようかがよりはっきりしてきませんか?

 

書き落としていることがたくさんある気がするので、次回は何かフォローアップ的なことを書くかもしれません。それではまたその時まで。

 

Happy teaching, my friends!

Creative Commons License

生徒の学びを促進する評価:formative assessment

f:id:ednotes:20181203055912j:plain

Photo by Tuân Nguyễn Minh on Unsplash

こんにちは。前回のエントリーの続きです。

 

本題に入る前に。今formative assessmentをGoogle検索してみたところ、summative assessmentと併せてふつうに和訳が出てきますね。

 

formative assessment = 形成的評価

summative assessment = 総括的評価

(参照:https://fukutake.iii.u-tokyo.ac.jp/archives/beat/beating/035.html

 

振り返ってみると、学校で勤めている間にこの用語を聞いたことはない気がします。大学で教職課程を履修していた時にはもしかしたら耳にしていたかもしれませんが、記憶にはありません。この用語と概念は日本ではどれくらい知られているんでしょうね。カナダの先生たち(幼稚園~大学)の間では、当たり前に共有されているように見えます。とは言え、私が普段会っているのは学校で教えつつ大学院に通ってきているような先生たちなので一般化できないかもしれませんが。

 

ではここから本題です。「formative assessment大事!」という話です。

 

前回書いた通り、formative assessmentというのは「途中の評価」です。先生は生徒の学びの途中段階(プロセス)を評価して、生徒たちが必要としているサポートが何かを判断します。そしてこれはformative feedback(その評価とサポートを生徒に与えること)につながります。

 

formative assessmentは、summative assessmentとして最終的な評価を受ける前に、何回も生じるので、生徒はそのフィードバックを先生から受ける度に、自分のやっていること(テスト、作文、課題、実技系のパフォーマンスや作品など、というか、ありとあらゆる学習活動)を修正したり改善したりできるわけです。そして、先生は生徒が改善してきたものをまたformative assessmentし、フィードバックを与え、生徒が学習目標に到達するまでこれを続けます。

 

対して、summative assessmentは最後通告的評価なので、それを受けた後には修正も改善も何もありませんね。中3の3学期に成績表をもらって「そうか、私(5段階で)2か…」と思って家に帰って夕飯を食べて寝て次の日には忘れて、ふとした時に思い出すけれどだからどうするわけでもないというあの感じです。

 

ここまででもうなぜ「formative assessment大事!」なのかピンと来ている方も多いかと思います。が、念のため事例を挙げて、それぞれの評価方法がどういう指導につながるかを簡単に説明してみます。

 

事例:中1数学でクラスの半分が文章題でつまづく

 

formative assessment(とフィードバック)がある場合:

つまづいている生徒に対して、先生はサポートを与える。生徒はそのサポートを頼りにつまづきを解決する。

 

summative assessmentのみの場合:

つまづいている生徒に対して、先生は特にサポートを与えない。生徒は自分から先生や友人やその他の人にサポートを求めてつまづきを解決するか、サポートを得(られ)ず未解決のまま終わる。

  

で、このつまづきに対する対処がうまくいったか否かが、定期テストや学期末の成績などといったsummative assessmentに反映されます。

 

実際の教科指導はこんなに極端ではないので、summative assessmentしかない指導というのは考えられませんが、私が経験してきた感じだとformative assessmentにあまり力を入れていない指導というのはけっこうある気がします。つまづいている生徒がいるのを知りつつも、つまづきについて対策を取らず、学期末に×が並んだ答案を見ながら「あの子、もうちょっと頑張ってくれるといいんだけどねえ」みたいな。

 

脱線しますが、これをご覧になりながら、「formative assessmentに力を入れていても学期末に×が並んだ答案を目にします」と思われた先生はいらっしゃいませんか? 正直なところ、私です。「以前の私です」と過去形にしたい気持ちを抑えて告白します。私です。これについては次のエントリーに書きます。

 

元に戻しまして。そんなわけで、formative assessmentというのは「途中の評価」であり、「君が今立っているのはここだよ」と生徒の現状を生徒本人と一緒に把握するための評価です。そして、この評価は「じゃあ、あのゴールに到達するには君(生徒)と私(先生)は何をすればいいかな」と先へつながっていきます。和訳が「形成的評価」となっているとおり、この評価を通じて生徒の学びが形成されていきます。

 

先生が生徒に与える評価というと、生徒にペタッとレッテルを張って「はい、君は2。じゃあね」みたいなことを想像しがちですが(私だけ?)、formative assessmentという評価もまた評価なわけです。

 

formative assessmentについて前回より詳しく書いてみましたが、どうでしょう? これもまた評価だと意識すると、今日この後に生徒たちと接する接し方がちょっと変わる気がしませんか?(テンプレ)

 

次回は、formative assessmentをしていても生徒の学習活動が改善されない場合について書こうと思います。それではまたその時まで。

 

Happy teaching, my friends!

Creative Commons License

その評価の仕方で本当に生徒の力を伸ばせるのか

f:id:ednotes:20181203055459j:plain

Photo by Dlanor S on Unsplash

こんにちは。いきなり本題に入ります。教育についてです。

 

私自身は学校の英語科で勤めた経験が一番長いのですが、授業形態や教科にかかわらず応用可能なアイディアにもふれられると思うので、教育についてです、と言っておきます。

 

では、教育についての何なのか。「評価」に関する疑問についてです。一言で言うと、「その評価の仕方で本当に生徒の力を伸ばせるのか」、これです。これは私が教員である私自身に問い続けている疑問で、というか正直に言うと、何かのきっかけで(ちょっと今思い出せないのですが、何かきっかけがあったはず)この疑問について考え始めたら、考えれば考えるほど「これすげえ大事じゃんか…」と思うことの連続で、それで、これはぜひ他の先生方とも共有したいと思って、ブログを開設するまでに至ったわけです。狂気の沙汰ですね。

 

さて、これだけだとなんのことやらさっぱりかもしれません。次回のエントリーから、なぜ評価が「すげえ大事」なのか少しずつ書いていきます。

 

ですが、ブログタイトルを『先生のためのたぶん今から使えるアイディア』とした以上は今から使えるアイディアを出さずには終われないので(律儀)、イントロ程度のぼんやりしたものにはなりますが、まず1つ目をここで。

 

summative assessment

formative assessment

 

アイディアというよりは用語ですね。でも、新しい用語を知ると新しい概念が形成されて結果的に新しいアイディアが生まれる可能性が高まるということで許してください。

 

summative assessmentは「まとめの評価」とか「最終的な評価」のことで、学期末にもらう成績表が例として挙げられます。これに対比させて定義すると、formative assessmentは「途中の評価」と言えます。もちろんformativeをいくら和訳しても「途中の」という意味は出てきませんが、特にsummative assessmentと対比させながら定義する場合には、「途中の評価」と言うと納まりがいいような気がします。例としては、右手でボールを投げるときに右足を出す生徒に、左足を出すようにアドバイスした(らよりよく投げられるようになった)、というタイプの評価です。

 

違い、わかりますかね? というか、2つが違いすぎて、後者の例はもう「評価」じゃないんじゃないかと思われましたか? 後者のどこに評価があったかと言うと、言外の「お、君、右足出してるね!」と気づいて「しかしそれはベストじゃないよ!」と判断しているところです。アドバイスしている部分は「評価」ではなくて「フィードバック」ですね。フィードバックについても考えていることが腐るほどあるので、折に触れてお話しします。

 

summative assessmentとformative assessment、どうでしょう? すでにご存知だった先生方も多いかと思いますが、評価にも2種類あると思うと、特にformative assessmentという評価があることを意識すると、今日この後生徒たちに接する接し方がちょっと変わる気がしませんか?(こじつけ)

 

この流れだと、次回のエントリーはformative assessmentについてさらに書くのがよさそうですね。それではまたその時まで。

 

Happy teaching, my friends!(なれなれしい)

Creative Commons License